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武将スーツ第4弾・薩摩隼人の勝負服!島津義弘スーツで鹿児島を盛り上げる!ビジネスマンの甲冑はスーツだ。薩摩ボタン・大島紬など鹿児島の素材を使用!

大阪城下、谷町で紳士礼服の製造小売を手掛ける株式会社NFLは「現代ビジネスマンの甲冑はスーツ」をテーマに、武将?ご当地素材でこれまでに真田幸村、織田信長、北条氏康モデルのスーツを製作。真田丸の影響もあり、幸村スーツは内閣府ふるさと投資連絡会議のホームページへの掲載や数多くのTV・新聞等で取り上げられてきました。今回、鹿児島密着クラウドファンディングFAAVO鹿児島のリニューアルに伴い、鹿児島が誇る猛将・島津義弘をモチーフにしたスーツを製作、クラウドファンディングに挑戦。このスーツは島津家の戦術や逸話などを取り入れたデザインで、薩摩ボタン作家による島津にちなんだ特別のボタンやピンズ、大島紬のチーフなど鹿児島の素材を使用。プロジェクトの募集締め切りは11月29日。1口12,000円から支援ができ、支援額に応じて、手作りの薩摩ボタンや、島津スーツ、島津コートなどのお礼の品を用意しています。

島津義弘スーツ開発プロジェクト詳細
https://faavo.jp/kagoshima/project/1605


[資料: https://files.value-press.com/czMjYXJ0aWNsZSM0MzEyNiMxNzAzNDAjNDMxMjZfUWZMb3pZWEJ0VC5qcGc.jpg ]


大阪の紳士礼服メーカー、株式会社NFLの酒匂雄二と申します。大阪でスーツ作りを行う弊社NFLは縫製業界を盛り上げたい!と2014年、武将スーツを企画。
第1弾として、真田幸村モデル「不惜身命 真田幸村スーツ」を製作、全国に大阪の紳士服縫製文化と大阪のヒーロー「真田幸村」の製作費ではクラウドファンディングFAAVO大阪にて全国から約246万円のご支援を頂きました。

続く2015年3月、愛知県の毛織物産業を盛り上げるべく第2弾「天下布武 織田信長スーツ」を開発、続いて2015年秋には、大河ドラマ誘致を推進する小田原箱根エリアより北条スーツのオファーを頂き起案。第3弾「禄寿応穏 北条氏康スーツ」を開発し、いずれも多くのご支援によりプロジェクト達成してまいりました。

そして今回、FAAVO鹿児島のリニューアルに伴い、鹿児島でクラウドファンディングの勉強会を開催したご縁などから、武将スーツ第4弾は絶大な人気を誇る、島津家17代当主・島津義弘スーツを制作致し、2018年の大河ドラマでも盛り上がるであろう鹿児島を更に応援したいと考えております。

島津に暗君なし。大軍相手に勝利を重ね、逆境を乗り越え続けてきた名君をモチーフに。
薩摩島津家は、現代も続く数々の大名家でも屈指の名家です。鎌倉時代から約800年という長い日本の激変の時代の中でも絶えることなく、時代の節目に名を残す名君が輩出されてきました。鎌倉時代に薩摩に渡り、土着から始まった島津家・薩摩勢が明治維新の中心に居たことは皆様もご存知の通り。
九州の南端、幕府の目が届きづらい地でありながら、逆にそれを最大限に活かし、海外の情報・最新技術を取り入れ、歴史の岐点に存在していたことから、
今なお「島津に暗君(あんくん)なし」という言葉で根強い人気を誇っているのでしょう。
それら数々の名君の中でもモチーフに選んだのは島津家の当主の中でも抜群の人気を誇る、島津家17代当主・島津義弘公。寡兵で何度も大軍に挑み、絶望的な逆境も機転を利かし、関ヶ原の戦いの絶体絶命の状況も打開、一族の結束で乗り切ってきました。

勇猛果敢な島津勢の戦いは伏兵戦術の「釣り野伏(つりのぶせ)」や関ヶ原の戦いにおける「敵中突破・捨て奸(すてがまり)」などでも知られ、この戦いぶりが多くのファンを惹きつけていると想います。
特に朝鮮出兵の戦いぶりは「鬼石曼子(グイシーマンズ)」として朝鮮・明軍から恐れられ、徳川家康も「前代未聞の大勝利」と奇跡の勝利を賞賛。これらの活躍が「鬼島津」の異名を今に伝えます。

そんな猛々しいイメージの強い島津義弘ですが、愛妻家で家族想い・兄弟想いであることが伺える文献も多く、敵味方関係なく死者を弔うなど情が深かった一面も。豊臣秀吉は島津家を恐れ、兄で16代当主の島津義久を冷遇、義弘を優遇し、兄弟の対立による弱体対化を謀ろうとしたが失敗したとも。義弘の死後、殉死(後追い死)を禁止していたにも関わらず、13名の殉死者が居たことからも人望の厚さが伺えます。

さらに、武術だけでなく茶の湯や医術、学問にも秀でた才能を持つ文化人であり、文武両道を体現したような人物であったことが伺えます。
この人柄を投影するようなスーツに仕上げ、現代のビジネスマンにも、是非このスーツを着用頂き、奮起して頂ければと考えます。競合他社や大手取引先にも屈せずに頑張るビジネスマン、そして家では良き父であり、趣味を嗜む事も忘れない。

がむしゃらに戦うだけではなく、義弘のような器の大きな人物に・・・そんな想いを込めました。
毎回こだわるボタンには、薩摩の高級伝統工芸品である薩摩ボタンを。そして胸に備え付けたチーフには大島紬を採用するなど、今回もご当地素材をあしらっています。

この島津義弘スーツを制作するに辺り、2015年11月、2016年5月の二度鹿児島へ渡り、仙巌園、尚古集成館などを中心に義弘公の足跡をたどりました。


[資料: https://files.value-press.com/czMjYXJ0aWNsZSM0MzEyNiMxNzAzNDAjNDMxMjZfenZZa0FlUkduVS5qcGc.jpg ]

5月の鹿児島は雨。後述する吉兆の「島津雨」ということでしょうか。島津家に所縁の深い、仙巌園・尚古集成館を訪問して参りました。
島津家28代当主島津斉彬公から始まったとされる集成館事業の一環として、1923年5月22日に開館した「尚古集成館」を訪ねました。こちら、現在は島津興業によって運営され、島津家に関する史料や薩摩切子、薩摩焼などが展示されています。

今日、よく見かける丸に十の家紋は、江戸時代以降に使われたものだそうで、当時はこの十字紋だったそうです。仙巌園に飾られている島津義弘公の鎧にも丸十が描かれていますが、当時の文献からわかりうる範囲での復元とのこと、より伝わりやすくするためとご説明を頂きました。

[資料: https://files.value-press.com/czMjYXJ0aWNsZSM0MzEyNiMxNzAzNDAjNDMxMjZfRGhsYld0enJQby5qcGc.jpg ]

今回、スーツにメインの織りネームはこの十字。島津家の家紋には3種存在するそうですが、一番有名な十文字紋は初代・島津忠久が源頼朝から授かったものとされ、お馴染みの丸がない十字紋であったそうです。これは、2匹の龍をかたどったという言い伝えの他、1189年の奥州藤原氏攻略の際に源頼朝が箸で十字の形をつくってこれを家紋としたという言い伝えも。

島津家の初代忠久所用と伝えられる鎧や、蒙古襲来時の絵などに十字紋の旗が描かれていることから鎌倉時代には家紋として使用していたことが伺えます。これが16〜17世紀頃に丸十文字紋へと変化するが、その具体的な変化時期や理由は明らかになっていないそうです。【織りネーム監修・協力:戦国魂】

上記の織ネームを着けたサンプルを持って鹿児島・島津興業の方々にスーツを見て頂き、ご意見を賜る機会に恵まれました。

モチーフが島津義弘の時代であるなら当時の十字と少し形状が異なるというご助言を頂き、襟裏の刺繍は尚古集成館様から頂戴した十字を採用。さら時代が異なる「丸十」のデザインは極力使用しない様にし、袖ボタンのみにするなど、鹿児島から戻り、何度も改良を重ねました。
■こだわり:十字紋の織ネーム&襟裏十字刺繍
鹿児島訪問時、尚古集成館様よりご提供頂いた十字の家紋を襟裏に刺繍。これまでの武将スーツではオプションにしておりましたが、リクエストが多いことから、今回は標準でお付けすることにしました。 重要な会議、大きな商談、プレゼンが控える朝はこの襟を見つつ、ピシッと立てていざ出陣!

[資料: https://files.value-press.com/czMjYXJ0aWNsZSM0MzEyNiMxNzAzNDAjNDMxMjZfRXd5bG9vTlBSay5qcGc.jpg ]


■こだわり:釣り野伏せっぱ(つりのぶせっぱ)

[資料: https://files.value-press.com/czMjYXJ0aWNsZSM0MzEyNiMxNzAzNDAjNDMxMjZfZUtSeVZ6bGlVbC5qcGc.jpg ]

島津家が得意とした伏兵戦術として「釣り野伏せ(つりのぶせ)」というものがあります。

全軍を3つに分け、2部隊を左右で伏兵させて、敵を三方から包囲する戦法。まずは中央の部隊が正面から敵と対峙、敗走を装いながら後退するのが「釣り」そして敵が追撃を開始すると、左右の伏兵に敵を攻撃させる「野伏せ」で完成。

シンプルながら、敵に察知されないように動く部隊の連携、冷静な判断を強いられるなど高い訓練度を要する非常に難易度の高い戦法と言えるでしょう。島津家は、これらの戦法を駆使し、耳川の戦い、沖田畷の戦い、戸次川の戦いなどで勝利し、一時的とはいえ九州をほぼ統一することに成功しました。
本来は袖のボタンがあるところの穴かがりに見せた切羽(せっぱ)と呼び、ボタンホールが開いていて開閉ができる袖を本切羽(本開き)といいます。
その切羽の裏袖にICカードを伏兵のように収納できるポケットを装備。

袖で改札機をタッチすることでスムーズに出入りできます。忙しいビジネスマン、迅速で練度の高い島津家の行軍にあやかる仕様。差し込み口には落下防止のスナップボタンが付いています。
■こだわり:丸十ボタン・小返しの五本鑓ボタン

[資料: https://files.value-press.com/czMjYXJ0aWNsZSM0MzEyNiMxNzAzNDAjNDMxMjZfdk92Q21RRkFKQi5qcGc.jpg ]

小返しの五本鑓(こがえしのごほんやり)とは、関ヶ原の戦いにおいて敵中突破退却戦の際、下馬して戦場に踏み止まり、島津義弘を救うために奮戦した家臣5人、川上忠兄、川上久智、川上忠智、川上久林、押川公近、久保之盛を顕彰した呼び名。

彼らの奮戦がなければ、後世まで語り継がれる壮絶な退却劇「島津の退き口」は成立しなかったかもしれず、その勇猛果敢な5人をイメージし、通常は4つが多いスーツの袖ボタンを5つ配しました。
左右の第一ボタンのみ、丸十のプリントを施しました。

その他のこだわりはプロジェクトページを御覧下さい。
https://faavo.jp/kagoshima/project/1605
■こだわり:大島紬の伏兵チーフ
大島紬(おおしまつむぎ)は手で紡いだ絹糸を泥染めし、手織りした平織りした布、あるいはその布で縫製した和服を指します。
鹿児島県奄美大島の特産品である大島紬が薩摩の記録に登場するのは1720年、薩摩藩の指示により、島役人以外の着用を禁じるというもので、薩摩藩の重要な財源となっていた事が伺えます。古くは734年に、奈良東大寺の献物帳に記録されている1300年以上の歴史がある日本が誇る織物です。

従来のスーツでは袋地が縫い付けてあり普通のポケットになっていて、フォーマルな場ではシルクのチーフを胸に挿します。島津スーツではこのポケット地に贅沢にも大島紬を使用、つまんで取り出し、ポケットチーフにすることができ、商談や重要な会議の場でも簡単にドレスアップが可能。こちらも島津家得意の伏兵戦術にならいました。

※大島紬は生産時により生地が変わる可能性がございます。
■こだわり:鶴丸城モチーフのポケットフラップ(フタ)
関ヶ原の戦いの後、18代当主家久(忠恒)によって築城された鹿児島城の別名。鹿児島では一般的に別名の「鶴丸城」の名で親しまれ、案内図や看板なども「鶴丸城」の表記でほぼ統一されているほどです。この名の由来は、屋形の形状が鶴が羽を広げたようであったことから付いたとされます。

鶴丸城にちなんで、ポケットフラップの裏地には鶴の織柄が入った純白の西陣織を使用。鹿児島の素材ではありませんが、西陣織の由来にもなった応仁の乱では島津家は事実上、東西に分かれて参戦、10代当主の立久が東軍、叔父の季久が西軍に属し、どちらが負けても家が存続するようにしていたためであると言われています。
■こだわり:火縄・留め紐
火縄銃の導火線をモチーフにした江戸紐のボタン留め紐。
鎌倉から続く名家としての誇りか、関ヶ原の戦いでも島津義弘は平安・鎌倉時代に多く着用された「大鎧(おおよろい)」で臨んだと伝えられています。そんな古式の鎧をまとっていたとされる一方、火縄銃をいち早く手に入れ、大将自ら銃を持って戦ったとされる島津勢(尚古集成館様より教示)、関ヶ原の退却戦でも殿(しんがり)を務めた部隊が火縄銃で応戦、島津家臣の柏木源藤(かしわぎげんとう)が徳川の重臣・井伊直政を狙撃、直政はこの傷が元で亡くなったと言われています。


※限定コースでは島津家・島津義弘公にちなんだ薩摩ボタンをあしらう特別仕様をご用意しています。
薩摩ボタンはご支援順に1つ1つ作家による手作りのため、お届け日は最長時期を記載しております。スーツお仕立て時は通常のボタンをお付けしますのので、島津スーツやお手持ちの衣類雑貨へは縫い付けはご自身でお願い致します。


■こだわり:座禅陣シートピース
座禅陣(捨て奸)は、関ヶ原の退却戦で少数の兵が敵軍を足止めする戦法で、特にあぐらをかいた兵が銃で敵の指揮官を狙撃するものを指します。座ることによって敵から見つかりにくくした、射撃の命中率向上を狙ったとされています(諸説あり)
敵中突破を模したV字の切れ込みはシートピース、またはVカットと呼ばれるデザインで、ベルトループが腰帯に縫い付けられているものとは異なり、V字の切れ込みとループが独立してついています。オーダーでは人気の仕様ですが、スリットがはいっていることにより、腰まわりが楽になり、また、ベルトで独立ループが引き上がることにより、ヒップを持ち上げ、スタイルを良く見せる効果があります。

更に、右腰前にもこっそりポケットが。今ではコインポケットやチェンジポケットが主流の呼び名ですが、かつてはウォッチポケットと呼ばれ、その名の通り懐中時計を入れるポケットでした。

島津義弘公は朝鮮出兵時、時計代わりに猫7匹を朝鮮に連れて行き、猫の目の瞳孔の開きで時刻を推察したとされています。また、明治維新にも第29代当主島津忠義が西郷隆盛に懐中時計を贈ったことも知られています。

■こだわりスペシャル:さらに限定・特別仕様のスーツには薩摩ボタンを使用!ラペルピン・ボタン単体でもお返しをご用意しております。


[資料: https://files.value-press.com/czMjYXJ0aWNsZSM0MzEyNiMxNzAzNDAjNDMxMjZfSHdxUk9YY1BmSS5wbmc.png ]


室田 志保さん/薩摩焼絵付け師
1975年鹿児島県生まれ。95年に白薩摩焼窯元の絵付け部に入社。2004年に鹿児島県青年会議所の海外留学派遣事業留学生に選ばれ、『薩摩焼をインテリアに取り込む』のテーマでイタリア・フィレンツェに短期留学。05年に金沢国内留学、九谷焼人間国宝工房にて技術指導を受ける。同年、白薩摩焼窯元を退社し、鹿児島県大隅半島にアトリエを構える。07年に初個展。09年日本ボタン大賞展審査員特別賞優秀賞受賞。

今回の島津スーツは、鹿児島が世界に誇る高級伝統品である薩摩ボタンを採用。島津家・島津義弘公の故事をモチーフに、海外でも高い評価を受ける新進気鋭の薩摩ボタン作家・室田志保さんにオリジナルで製作頂きました。フランスやアメリカなど海外でも高い評価を受けるその芸術品を復活させた匠。
かつては薩摩藩が独自に参加したパリ万博でも高い評価を受け、その名を世界に轟かせました。
薩摩ボタンは、鹿児島の伝統工芸品「白薩摩」に薩摩焼の技法を駆使し、金をはじめとする豪華絢爛な配色を施し、ミリ単位で作品を描いていきます。


着物などの和服やオーダーメイドなどの洋服の装いに、さらに上質な気品をまとわせるためのジュエリーにも似た芸術品といえます。
ひとつ手作業で行うため、お届けにはお時間を頂戴致します。


[資料: https://files.value-press.com/czMjYXJ0aWNsZSM0MzEyNiMxNzAzNDAjNDMxMjZfdEVwU3BoaUpTWC5qcGc.jpg ]


■狐火と島津雨(右)
狐(お稲荷さん)の周囲にカラフルな狐火が焚かれ、上部から「時雨軍旗」に描かれた雨が降るデザインです。

島津家の稲荷信仰は島津忠久誕生伝説が源流で、丹後局は住吉大社で雨の降る夜に狐火に照らされて忠久を出産したと言われています。 また、16世紀の合戦にも狐の話が出てくる。天文23(1554)年の岩剣城の戦いの際には狐火が灯ったと言われ、 文禄・慶長の役では紅白3匹の狐が明軍に突撃したと伝えられている。このようなことから島津氏と狐は関係が深く、稲荷信仰が領国に根付いていた。
また、雨の降る日に初代島津忠久が誕生したことにちなんで、島津家では雨をめでたいことが起こる吉兆とし「島津雨」と呼んでいた。 戦国時代、義弘の父・島津貴久が使用したとされる「時雨軍旗」はその故事をもとに作成されたものとされています。

■猫神様-義弘公に時を知らせた猫(左)
豊臣秀吉の文禄・慶長の役(1592〜1598年)の際、島津義弘は朝鮮に7匹の猫を連れていき、猫の目の瞳孔の開き具合で時刻を読み取ったとされ、7匹のうち、生還した2匹の猫を祀った神社が尚古集成館がある仙巌園に、日本で唯一猫を祀っているという「猫神神社」です。そのうち、一匹は三毛猫であったことが濃厚であるという研究からも、今回は一匹を三毛猫で描いていただきました。

室田さん曰く「猫の時計を懐中時計に見立て内ポケット用に猫を描きました」とのことで、猫時計を胸に忍ばせるコンセプトにとても感銘を受けましたので、内ポケットは猫神様に限らせて頂きます。

ボタンとラペルピンの裏の仕様はこちらのようになっています。裏には室田さんのアトリエ作である「Satsuma志史」も緻密に描かれています。
薩摩ボタンは1つでも2つでも、ケースと薩摩志史さんによる保証カードが付属します。

チェスト!×チェスターコート=チェストォーコート!
「チェスト!」
鹿児島県出身のプロ野球選手・川崎宗則選手がヒーローインタビューでよく叫んでいたり、格闘漫画などでもご存知の方も多いと思われます。元々は戦いの前に、気合を入れる「それゆけ!」に相当するのが「チェスト」だそうで、今では鹿児島のかけ声として浸透しているように想います。

この言葉に似た服・・・「チェスター(コート)」というひらめきで作ったのが、チェストォーコートです。ハッキリ言ってダジャレから生まれました。

チェスターコートは19世紀にチェスターフィールド伯爵が着たことに由来するという説が最も有力で、ジャケットに似た膝丈のコートです。今ではフォーマルやビジネスのコートとしても人気、女性のコートでもチェスターコートが増えました。
スーツ工場である自社工場に無理言って作ってもらったら思いの外かっこいいではありませんか。

スーツが減る中、様々なものづくりにチャレンジしていきたいという若手職人の魂が宿ったコートです!


[資料: https://files.value-press.com/czMjYXJ0aWNsZSM0MzEyNiMxNzAzNDAjNDMxMjZfTmNxRFZ3Wm1Bai5qcGc.jpg ]

■こだわり1:島津四兄弟ボタン 第二ボタンが次男・義弘公をイメージ
島津義弘は、15代当主・島津貴久の次男として生を受け、16代当主の兄・義久、弟・歳久・家久らとともに活躍、薩摩を守りぬきました。コートの袖ボタンは、この結束が固い4兄弟を表し、次男・義弘にあたる第二ボタンに丸十ボタンで切り替えた4兄弟ボタンにしました。
■こだわり2:釣り野伏せっぱ(つりのぶせっぱ)
スーツと同じく右袖の裏側(下袖)にICカード隠しポケットを装備。
■こだわり3・4:十字紋の織ネーム・襟裏刺繍
スーツと同じく、身返しに十字家紋の織ネームを、襟裏に十字家紋の刺繍を施しています。
■こだわり5:鶴丸城モチーフのポケットフラップ(フタ)
右脇のポケットは2段、上部にチェンジポケット(ウォッチポケット)をつけました。この右に2つ、左に1つのポケットのフラップに鶴丸城モチーフの鶴の西陣織を採用。
■こだわり6:火縄・留め紐
スーツと同じく、火縄銃の導火線をモチーフにした江戸紐のボタン留め紐。
島津義弘スーツ開発プロジェクト詳細
https://faavo.jp/kagoshima/project/1605
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