ラーメン業界に革命をもたらした伝説の店「げんこつ屋」2011年4月20日(水)新横浜ラーメン博物館で復活を遂げる!
[11/04/14]
提供元:@Press
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フードアミューズメントパーク新横浜ラーメン博物館(所在地:横浜市港北区、代表取締役:岩岡 洋志)は、2007年に惜しまれながら閉店した伝説の店「げんこつ屋」が、2011年4月20日(水)より「げんこつ屋 ラー博店」として復活し、営業を開始することをお知らせいたします。
新横浜ラーメン博物館
http://www.raumen.co.jp/home/index.html
画像入りのニュースリリースはこちらをご覧ください。
http://www.raumen.co.jp/home/shop/genkotsuya_release.html
【げんこつ屋ストーリー 1】
1980年4月、新高円寺にそれまでのラーメン店とは一線を画したコンセプトとクオリティを兼ね備えたラーメン店「げんこつ屋」はオープンしました。当時、「脱サラしてラーメン屋でも」という時代に、創業者関川清氏は料理としてのラーメンを目指し、地鶏やマグロ節など素材にこだわったラーメンや、ラーメン店とは思えない内装・デザインにこだわった店舗を生み出し、高円寺に行かないと食べることのできないラーメンとしてファンを増やしていきました。
「げんこつ屋」の屋号の一部である「げんこつ」には「大切なものはげんこつで握りしめる・・そのげんこつで握りしめたものを次世代に伝えていきたい」という関川氏の想いが込められています。そしてその想いは、1989年「げんこつ屋 渋谷プライム店」のオープンにより首都圏に知れ渡りました。完成度の高いラーメンに世代を問わず多くのお客様が訪れるようになったのです。
【げんこつ屋ストーリー 2】
1994年、世界初のフードアミューズメントパークとして誕生した「新横浜ラーメン博物館」に「げんこつ屋」は東京代表として出店。「げんこつ屋」の名は首都圏のみならず全国に知れ渡ることとなりました。
関川氏は当時22歳の息子、まさ仁(まさひと)氏を新横浜ラーメン博物館店の店長として抜擢し、関川氏がこれまでに培った知識、技術、そして想いを全てまさ仁氏に伝承しました。
新横浜ラーメン博物館卒業後、2002年には17店舗まで店舗を増やし、名実ともに有名店となりました。関川氏は更なる質の向上を目指し、約8億円を投じて、水などの素材にこだわりを持った工場を設立しました。
しかし、その後の不況や低価格ラーメンチェーン店の台頭も重なり、2007年には、ついに閉店することを決意。「げんこつ屋」の歴史は27年で幕を下ろすこととなってしまったのです。その後、関川氏は体調を崩し他界。「げんこつで握りしめたものを次世代に伝えていきたい」という関川氏の志は途絶えてしまったのです。
【げんこつ屋ストーリー 3】
「げんこつ屋」が幕を閉じてから3年経ったある日、ラーメン博物館担当者がまさ仁氏と再会。まさ仁氏は、父親が歩んだ創業の苦労を経験しつつ、「げんこつ屋」の味に磨きをかけたラーメンを作り続けていたのです。
そこで、ラーメン業界に多大なる影響を与えた店舗の復活という新横浜ラーメン博物館の意義と、「まだまだ父親の域には達していないが、ようやく父親の志を伝えていく時期が来た。」というまさ仁氏の想いが合致し、「げんこつ屋」閉店、関川氏が他界して4年後の2011年、新横浜ラーメン博物館で「げんこつ屋」が復活を迎えることとなったのです。
関川氏の苦労や想いを体感した4年間。今、息子の手によって、ここに「2代目げんこつ屋」として復活します。この味が食べられるのは世界で新横浜ラーメン博物館だけとなります。
【店主 関川 まさ仁】
「げんこつ屋」店主関川清氏の長男として生まれ、幼い頃から手伝いをはじめる。高校生の頃から本格的に店舗に入り、その後「げんこつ屋ラー博店」店長を務めた。亡き父の思いを伝えるため「げんこつ屋」の復活を決意した。
※店主の名前「まさ仁」氏の「まさ」の漢字は「はこがまえ」の中に「玉」。
新横浜ラーメン博物館
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画像入りのニュースリリースはこちらをご覧ください。
http://www.raumen.co.jp/home/shop/genkotsuya_release.html
【げんこつ屋ストーリー 1】
1980年4月、新高円寺にそれまでのラーメン店とは一線を画したコンセプトとクオリティを兼ね備えたラーメン店「げんこつ屋」はオープンしました。当時、「脱サラしてラーメン屋でも」という時代に、創業者関川清氏は料理としてのラーメンを目指し、地鶏やマグロ節など素材にこだわったラーメンや、ラーメン店とは思えない内装・デザインにこだわった店舗を生み出し、高円寺に行かないと食べることのできないラーメンとしてファンを増やしていきました。
「げんこつ屋」の屋号の一部である「げんこつ」には「大切なものはげんこつで握りしめる・・そのげんこつで握りしめたものを次世代に伝えていきたい」という関川氏の想いが込められています。そしてその想いは、1989年「げんこつ屋 渋谷プライム店」のオープンにより首都圏に知れ渡りました。完成度の高いラーメンに世代を問わず多くのお客様が訪れるようになったのです。
【げんこつ屋ストーリー 2】
1994年、世界初のフードアミューズメントパークとして誕生した「新横浜ラーメン博物館」に「げんこつ屋」は東京代表として出店。「げんこつ屋」の名は首都圏のみならず全国に知れ渡ることとなりました。
関川氏は当時22歳の息子、まさ仁(まさひと)氏を新横浜ラーメン博物館店の店長として抜擢し、関川氏がこれまでに培った知識、技術、そして想いを全てまさ仁氏に伝承しました。
新横浜ラーメン博物館卒業後、2002年には17店舗まで店舗を増やし、名実ともに有名店となりました。関川氏は更なる質の向上を目指し、約8億円を投じて、水などの素材にこだわりを持った工場を設立しました。
しかし、その後の不況や低価格ラーメンチェーン店の台頭も重なり、2007年には、ついに閉店することを決意。「げんこつ屋」の歴史は27年で幕を下ろすこととなってしまったのです。その後、関川氏は体調を崩し他界。「げんこつで握りしめたものを次世代に伝えていきたい」という関川氏の志は途絶えてしまったのです。
【げんこつ屋ストーリー 3】
「げんこつ屋」が幕を閉じてから3年経ったある日、ラーメン博物館担当者がまさ仁氏と再会。まさ仁氏は、父親が歩んだ創業の苦労を経験しつつ、「げんこつ屋」の味に磨きをかけたラーメンを作り続けていたのです。
そこで、ラーメン業界に多大なる影響を与えた店舗の復活という新横浜ラーメン博物館の意義と、「まだまだ父親の域には達していないが、ようやく父親の志を伝えていく時期が来た。」というまさ仁氏の想いが合致し、「げんこつ屋」閉店、関川氏が他界して4年後の2011年、新横浜ラーメン博物館で「げんこつ屋」が復活を迎えることとなったのです。
関川氏の苦労や想いを体感した4年間。今、息子の手によって、ここに「2代目げんこつ屋」として復活します。この味が食べられるのは世界で新横浜ラーメン博物館だけとなります。
【店主 関川 まさ仁】
「げんこつ屋」店主関川清氏の長男として生まれ、幼い頃から手伝いをはじめる。高校生の頃から本格的に店舗に入り、その後「げんこつ屋ラー博店」店長を務めた。亡き父の思いを伝えるため「げんこつ屋」の復活を決意した。
※店主の名前「まさ仁」氏の「まさ」の漢字は「はこがまえ」の中に「玉」。