武装中立国の核兵器開発の経緯:スイスとスウェーデン【フィスコ世界経済・金融シナリオ分析会議】
[20/04/13]
提供元:株式会社フィスコ
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注目トピックス 経済総合
中立国の中でも、はっきりと「武装中立」を行うと明言しているスイスと(今や厳密には中立ではない)スウェーデンには、実は具体的な核兵器開発プログラムがあった。核兵器開発を決心するまでの経緯も非常に似ているため、武装中立国の「現実思考」がどのようなものかを、両国を比較しながら紹介したいと思う。
■スイス核兵器プログラムの概要
日本の降伏日である1945年8月15日、あるスイスの軍人が連邦参事会(スイス連邦の行政、内閣のようなもの)員の一人に核兵器能力について模索するようにと要請を出す。ここからスイスの核兵器開発が始まったと見られる。
核兵器関連の委員会を作成する許可を連邦参事会が出した後、1946年に建前上平和な核利用の研究を行う「核エネルギー研究委員会」が発足。この委員会は一応秘密裏に核兵器の基礎研究も行うも、比較的進捗が遅かったと見られる。
1957年、当時のスイス軍参謀総長によって秘密の「核兵器保有可能性についての研究委員会」が設立。最終的に、スイスは核兵器を保有すべきと結論、この旨を連邦参事会に勧告する。この勧告のあと、1958年に、連邦参事会は核兵器なき世界は国益につながるとしつつ、近隣諸国が核保有をする場合は、スイスも保有をする方針をとるとの公式見解を出す。同年末、軍務省(現、国防・市民防衛・スポーツ省)に対して核兵器保有に向けての行動計画研究を命じる。
1960年代にはいると、票の過半数で法的拘束力が生じる国民投票(スイス特有の直接民主主義に近い制度)が核兵器関連で2つ行われる。1962年に核兵器保有禁止案が否決され、1963年に軍が核保有を進める場合に事前の国民投票を必要とする案がこれも否決される。この2つの国民投票を通じて、純粋に核保有が必要かどうかを決断するのは事実上軍と軍の統制に委ねられることになった。
ここからスイス軍によって、核保有計画の予算や核を獲得するために要する年数などの具体的な試算が出される。参謀本部も、どのような核兵器を調達するかを計算し、核兵器の地下実験地域も策定、連邦参事会と調整を行った。計画においては、抑止力の獲得を基本として、スイス国内に進出してきた敵に対してもこれを利用し、ソ連に対しても長距離爆撃で先制攻撃を行うことなども作戦として検討された。ただし、1964年以降、核兵器開発にあまり予算がつかなかったことや、試験原子炉の一部でメルトダウンなどが発生したこともあり、徐々に核兵器保有を疑問視する考えが広がった。
なお、1969年にスイスは軍務省の抵抗もあったが、NPT(核兵器の不拡散に関する条約)に調印した。このため、核兵器研究は主にNPTが破綻した際の核保有計画研究へ変更される。1977年にNPTを批准し、1988年に核兵器関連の研究委員会も最終的に解散させられ、ここにスイスの核兵器開発が終わる。
■スウェーデン核兵器プログラムの概要
スウェーデンの核兵器に対する興味は、スイスとは似た初動であるものの、スイスと違う点は第二次世界大戦中、スウェーデンが持つ頁岩、特にウランを含む頁岩に連合国側が興味を示したという点となる。ウランが核兵器開発のために使用されていることをスウェーデンは途中で察し、最終的に自国が持つウラン資源についての完全国家管理体制を構築したという経緯が事前にあった。
スウェーデンも日本の降伏直後、軍物理研究所が核兵器についての報告書をまとめ、1945年末までに民間および軍事において核利用についての研究を行う「核委員会」を設置した。1948年までには国営核エネルギー社も設立され、防衛研究所との協力体制も作る。特に、国立防衛研究所に対しては、核保有に関する具体的な研究の開始が命ぜられ、試算関連の報告書も早くまとめられる。核兵器開発についても、主にプルトニウムを中心とした開発の指針がこの段階で出されている。この点については、スイスよりも具体性に富んでいたと見られる。
1952年には空軍司令官が公的な場で核兵器研究を推進すべしと発言するが、私的な主張ということであまり見向きされなかった。1954年にも軍最高司令官のニルス・スウェルンドが国防に核兵器が不可欠と発言し、大量破壊兵器に対する防御だけではなく積極的に核を保有すべきという旨の発言を報告書で行っている。なお、その理屈としては中立であることで超大国の「核の傘」下にいないため、自分の身を守るために自分で核を保有するほかない、という考えであった。1955年には、実際の核兵器設計のドラフトも完成するに至る。
1950年代を通して、野党と国民、そして特に与党社会民主党の指導部の意見として核兵器保有に前向きであったと見られる。一方で防衛研究所が1958年に策定した「Sプログラム(核兵器防衛・対処を主とするが、核抑止力の研究も含む)」と「Lプログラム(核兵器設計用データ準備計画)」の2つを提案した際、スウェルンド軍最高司令官はどうにかLプログラム単体で予算が獲得できるように動いた。そこまであからさまなことを嫌ったのか、最終的に政府が許したのはSプログラム型に予算を充てることだった。そして、1959年には主に政治的な妥協の産物として核兵器を持つか持たないかを選ぶ立場を維持する「行動の自由」を原則としつつ、核に対する防衛研究の拡大という方針がとられる。
主に、1950年代がスウェーデンの核兵器に対する前向きなスタンスはピークであり、1961年にスウェルンド軍最高司令官が退役し、通常兵器調達の費用と競合するため核兵器に対する疑問が国防省の中からも出たことを契機として、少しずつ縮小傾向になっていく。一応、軍の方針としては核保有に偏っているといいうものの、核の拡散防止外交が推進されることになった。計画も具体性の乏しい報告書になり、1968年にNPT調印をするまでには行動の自由原則を放棄し、物理的な核兵器研究開発もストップした。辛うじて、プルトニウム関連の研究所が稼働していたため、これが具体的な核兵器研究の最後の砦となったが、この研究所も1972年に停止したため、核兵器研究が事実上完全停止する。1974年に少量のプルトニウムを排出することも目的としていたオゲスタ原子炉が停止したため、核兵器に必要なものも外部からでないと手に入れない状況になる。2012年、スウェーデンが保有しているプルトニウム3.3kgとウラン9kgが米国に脅威低減のために輸出された。
■類似点から見る「現実主義」
スイス、スウェーデンは共に、日本に核爆弾が落とされたほぼ直後に、核兵器が自国にとってなんらかの意味があると察し、これについての政策からより具体的な兵器開発までに進むことを選んだ。武装中立国で、大国の庇護下にないことから、自国ができる範囲で選択肢を広めるという考えが根底にあると思われる。最終的にNPTに調印するものの、これは核兵器が「悪」だからという考えではなく、あそこまで小さい国が仮に核兵器を持ったとしても、ソ連やアメリカは核保有国に対する先制攻撃を行う用意があるということで、核先制攻撃の口実を持たせないことと、NPTに調印したことによって立場を明確にし、中立国を攻撃するということが如何に不道徳なのかということを強調するために行ったものである。
結局、特にスイスで見られることであるが、過去の国民投票の結果がまだ残っているため、国益につながり、NPTが破綻するものなら、核兵器開発に戻るための諸条件がそろっているということが残った。最終的には、究極的に他人に頼ることができない「中立」的な立場では、スウェーデンのように事実上NATO(北大西洋条約機構)との協力体制へ移行して厳密な中立を放棄することも含めて、究極的な選択肢を広めること、模索することが常に求められることを見てとられる。
地経学アナリスト 宮城宏豪
幼少期から主にイギリスを中心として海外滞在をした後、英国での工学修士課程半ばで帰国。日本では経済学部へ転じ、卒業論文はアフリカのローデシア(現ジンバブエ)の軍事支出と経済発展の関係性について分析。大学卒業後は国内大手信託銀行に入社。実業之日本社に転職後、経営企画と編集(マンガを含む)を担当している。これまで積み上げてきた知識をもとに、日々国内外のオープンソース情報を読み解き、実業之日本社やフィスコなどが共同で開催している「フィスコ世界金融経済シナリオ分析会議」では、地経学アナリストとしても活躍している。
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■スイス核兵器プログラムの概要
日本の降伏日である1945年8月15日、あるスイスの軍人が連邦参事会(スイス連邦の行政、内閣のようなもの)員の一人に核兵器能力について模索するようにと要請を出す。ここからスイスの核兵器開発が始まったと見られる。
核兵器関連の委員会を作成する許可を連邦参事会が出した後、1946年に建前上平和な核利用の研究を行う「核エネルギー研究委員会」が発足。この委員会は一応秘密裏に核兵器の基礎研究も行うも、比較的進捗が遅かったと見られる。
1957年、当時のスイス軍参謀総長によって秘密の「核兵器保有可能性についての研究委員会」が設立。最終的に、スイスは核兵器を保有すべきと結論、この旨を連邦参事会に勧告する。この勧告のあと、1958年に、連邦参事会は核兵器なき世界は国益につながるとしつつ、近隣諸国が核保有をする場合は、スイスも保有をする方針をとるとの公式見解を出す。同年末、軍務省(現、国防・市民防衛・スポーツ省)に対して核兵器保有に向けての行動計画研究を命じる。
1960年代にはいると、票の過半数で法的拘束力が生じる国民投票(スイス特有の直接民主主義に近い制度)が核兵器関連で2つ行われる。1962年に核兵器保有禁止案が否決され、1963年に軍が核保有を進める場合に事前の国民投票を必要とする案がこれも否決される。この2つの国民投票を通じて、純粋に核保有が必要かどうかを決断するのは事実上軍と軍の統制に委ねられることになった。
ここからスイス軍によって、核保有計画の予算や核を獲得するために要する年数などの具体的な試算が出される。参謀本部も、どのような核兵器を調達するかを計算し、核兵器の地下実験地域も策定、連邦参事会と調整を行った。計画においては、抑止力の獲得を基本として、スイス国内に進出してきた敵に対してもこれを利用し、ソ連に対しても長距離爆撃で先制攻撃を行うことなども作戦として検討された。ただし、1964年以降、核兵器開発にあまり予算がつかなかったことや、試験原子炉の一部でメルトダウンなどが発生したこともあり、徐々に核兵器保有を疑問視する考えが広がった。
なお、1969年にスイスは軍務省の抵抗もあったが、NPT(核兵器の不拡散に関する条約)に調印した。このため、核兵器研究は主にNPTが破綻した際の核保有計画研究へ変更される。1977年にNPTを批准し、1988年に核兵器関連の研究委員会も最終的に解散させられ、ここにスイスの核兵器開発が終わる。
■スウェーデン核兵器プログラムの概要
スウェーデンの核兵器に対する興味は、スイスとは似た初動であるものの、スイスと違う点は第二次世界大戦中、スウェーデンが持つ頁岩、特にウランを含む頁岩に連合国側が興味を示したという点となる。ウランが核兵器開発のために使用されていることをスウェーデンは途中で察し、最終的に自国が持つウラン資源についての完全国家管理体制を構築したという経緯が事前にあった。
スウェーデンも日本の降伏直後、軍物理研究所が核兵器についての報告書をまとめ、1945年末までに民間および軍事において核利用についての研究を行う「核委員会」を設置した。1948年までには国営核エネルギー社も設立され、防衛研究所との協力体制も作る。特に、国立防衛研究所に対しては、核保有に関する具体的な研究の開始が命ぜられ、試算関連の報告書も早くまとめられる。核兵器開発についても、主にプルトニウムを中心とした開発の指針がこの段階で出されている。この点については、スイスよりも具体性に富んでいたと見られる。
1952年には空軍司令官が公的な場で核兵器研究を推進すべしと発言するが、私的な主張ということであまり見向きされなかった。1954年にも軍最高司令官のニルス・スウェルンドが国防に核兵器が不可欠と発言し、大量破壊兵器に対する防御だけではなく積極的に核を保有すべきという旨の発言を報告書で行っている。なお、その理屈としては中立であることで超大国の「核の傘」下にいないため、自分の身を守るために自分で核を保有するほかない、という考えであった。1955年には、実際の核兵器設計のドラフトも完成するに至る。
1950年代を通して、野党と国民、そして特に与党社会民主党の指導部の意見として核兵器保有に前向きであったと見られる。一方で防衛研究所が1958年に策定した「Sプログラム(核兵器防衛・対処を主とするが、核抑止力の研究も含む)」と「Lプログラム(核兵器設計用データ準備計画)」の2つを提案した際、スウェルンド軍最高司令官はどうにかLプログラム単体で予算が獲得できるように動いた。そこまであからさまなことを嫌ったのか、最終的に政府が許したのはSプログラム型に予算を充てることだった。そして、1959年には主に政治的な妥協の産物として核兵器を持つか持たないかを選ぶ立場を維持する「行動の自由」を原則としつつ、核に対する防衛研究の拡大という方針がとられる。
主に、1950年代がスウェーデンの核兵器に対する前向きなスタンスはピークであり、1961年にスウェルンド軍最高司令官が退役し、通常兵器調達の費用と競合するため核兵器に対する疑問が国防省の中からも出たことを契機として、少しずつ縮小傾向になっていく。一応、軍の方針としては核保有に偏っているといいうものの、核の拡散防止外交が推進されることになった。計画も具体性の乏しい報告書になり、1968年にNPT調印をするまでには行動の自由原則を放棄し、物理的な核兵器研究開発もストップした。辛うじて、プルトニウム関連の研究所が稼働していたため、これが具体的な核兵器研究の最後の砦となったが、この研究所も1972年に停止したため、核兵器研究が事実上完全停止する。1974年に少量のプルトニウムを排出することも目的としていたオゲスタ原子炉が停止したため、核兵器に必要なものも外部からでないと手に入れない状況になる。2012年、スウェーデンが保有しているプルトニウム3.3kgとウラン9kgが米国に脅威低減のために輸出された。
■類似点から見る「現実主義」
スイス、スウェーデンは共に、日本に核爆弾が落とされたほぼ直後に、核兵器が自国にとってなんらかの意味があると察し、これについての政策からより具体的な兵器開発までに進むことを選んだ。武装中立国で、大国の庇護下にないことから、自国ができる範囲で選択肢を広めるという考えが根底にあると思われる。最終的にNPTに調印するものの、これは核兵器が「悪」だからという考えではなく、あそこまで小さい国が仮に核兵器を持ったとしても、ソ連やアメリカは核保有国に対する先制攻撃を行う用意があるということで、核先制攻撃の口実を持たせないことと、NPTに調印したことによって立場を明確にし、中立国を攻撃するということが如何に不道徳なのかということを強調するために行ったものである。
結局、特にスイスで見られることであるが、過去の国民投票の結果がまだ残っているため、国益につながり、NPTが破綻するものなら、核兵器開発に戻るための諸条件がそろっているということが残った。最終的には、究極的に他人に頼ることができない「中立」的な立場では、スウェーデンのように事実上NATO(北大西洋条約機構)との協力体制へ移行して厳密な中立を放棄することも含めて、究極的な選択肢を広めること、模索することが常に求められることを見てとられる。
地経学アナリスト 宮城宏豪
幼少期から主にイギリスを中心として海外滞在をした後、英国での工学修士課程半ばで帰国。日本では経済学部へ転じ、卒業論文はアフリカのローデシア(現ジンバブエ)の軍事支出と経済発展の関係性について分析。大学卒業後は国内大手信託銀行に入社。実業之日本社に転職後、経営企画と編集(マンガを含む)を担当している。これまで積み上げてきた知識をもとに、日々国内外のオープンソース情報を読み解き、実業之日本社やフィスコなどが共同で開催している「フィスコ世界金融経済シナリオ分析会議」では、地経学アナリストとしても活躍している。
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