父・習仲勲の執念 深セン経済特区40周年記念に習近平出席(1)【中国問題グローバル研究所】
[20/10/23]
提供元:株式会社フィスコ
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GRICI
【中国問題グローバル研究所】は、中国の国際関係や経済などの現状、今後の動向について研究するグローバルシンクタンク。中国研究の第一人者である筑波大学名誉教授の遠藤 誉所長を中心として、トランプ政権の ”Committee on the Present Danger: China” の創設メンバーであるアーサー・ウォルドロン教授、北京郵電大学の孫 啓明教授、アナリストのフレイザー・ハウイー氏などが研究員として在籍している。関係各国から研究員を募り、中国問題を調査分析してひとつのプラットフォームを形成。考察をオンライン上のホームページ「中国問題グローバル研究所」(※1)にて配信している。
◇以下、中国問題グローバル研究所のホームページでも配信している遠藤 誉所長の考察を2回に渡ってお届けする。
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10月14日、習近平は自分の父・習仲勲が提案し建設した深セン経済特区設立40周年記念式典に出席した。総書記就任後、最初に視察したのも深センで、グレーターベイエリア構想とデジタル人民元に力を入れている。
◆深セン経済特区構想は習仲勲が提案し中央に決議させた
今では「中国のシリコンバレー」と呼ばれるほどハイテク企業が集中している深センを、「経済特区」として認めさせたのは習近平の父・習仲勲だ。
1962年に小説『劉志丹』を書かせて反党活動を行ったという冤罪で国務院副総理の座からいきなり罪人にされ、1978年まで捕らわれの身であった習仲勲は、習近平やその母親・斉心などの奔走により、ようやく釈放された。
釈放に尽力したのは、当時の中共中央組織部部長・胡耀邦と、全人代常務委員会委員長・葉剣英である。
1978年2月24日から人民大会堂で開催された第五回政治協商会議全国委員会第1次会議に出席し、全国政治協商会議常務委員会委員に選ばれるところから再出発が始まった。4月5日に第二書記として広東省に派遣された。
その頃の深センはカエルが鳴いているようなあぜ道があるだけで、それも農民あるいは漁民の多くは隣接する香港に非合法的に逃亡する者が多く、農地は荒れ果てていた。逃亡者が減らない原因は、深センが貧乏だからだ。夜ともなると、橋一つ隔てた向こうには、香港の高層ビルとネオンサインが輝いていた。
そこで習仲勲は何としても深センを豊かにしようと血みどろの努力をするのである。
文化大革命(文革)は1979年10月に終わったばかりで、庶民に商売をさせようとすると文革のスローガンの一つだった「走資派(資本主義に走る者)」という批判が来る。それでも逃亡者を防ぐためには経済を繁栄させるしかない。当時の習仲勲の努力は「殺出一条血路」(命懸けで闘って血路を開く)という言葉で表されている。
習仲勲等は1930年代、陝西・甘粛・寧夏などの一帯で「陝甘寧革命特区」という革命根拠地を創っていた。
そこで習仲勲は深センなど、いくつかの広東省の都市を「経済特区」と位置づけ、「特別の経済交易に関する権限を広東に欲しい」と中央に要求し、「深セン経済特区」が誕生するに至ったのである。
1979年4月に「輸出特区」として、1980年8月には「経済特区」として正式批准が国務院から下りたが、改革開放の号令がかかる1978年12月よりも前から、習仲勲は切羽詰まった形で、改革開放を先行する行動を実際に取っていたことになる。改革開放の先駆者は習仲勲であり、「経済特区」のアイディアは習仲勲が出したものである。
1980年11月、再び中央に返り咲き、1981年3月には葉剣英の尽力で中共中央書記処書記に就任した。
しかし1987年1月に胡耀邦が中共中央総書記の座から無理矢理に引きずり降ろされたのだが、そのとき机を叩いて絶対にダメだと反対したのは習仲勲一人だった。1989年4月の胡耀邦の死によって同年6月に天安門事件が起きたわけだが、習仲勲は天安門事件においても民主を叫ぶ学生に同情したりしたため、1990年にはトウ小平により、これも全人代への出席をいきなり阻まれ、再び失脚した。
◆総書記就任後、最初の視察地を深センにした習近平
2012年11月15日、第18回党大会一中全会で中共中央総書記に選ばれた習近平は、総書記就任後の最初の視察先として「深セン」を選んだ。
ここは父・習仲勲が屈辱の16年間を耐え抜いて、死力を尽くして開拓した「経済特区」なのである。
すでにこの世にいない父の無念を悼むかのように、習近平は「深セン」の飛躍的発展に執念を燃やしている。
改革開放40周年記念の2018年10月22日、習近平は再び深センを訪れ、4日間にわたって「深セン・香港・マカオ」を連結するグレーターベイエリア構想に関する国家戦略を強調した。そして深センを「先行モデル地区」として指定し、40年前に父・習仲勲が深センを経済特区に定めた道をなぞるように、グレーターベイエリア構想に尋常ではない執念を燃やしている。
今回の深セン訪問は、第3回目となり、10月13日午後に深センに着いているので、その日から中央テレビ局CCTVでは報道に力を入れ(※2)、続けて14日も15日も連続して習近平の式典参加と「重要講話」を報道している(※3)。深セン市のGDPは40年前の1万倍になったそうだ。
(本論はYahooニュース個人からの転載である)
「父・習仲勲の執念 深セン経済特区40周年記念に習近平出席(2)【中国問題グローバル研究所】
」へ続く。
写真:ロイター/アフロ
※1:https://grici.or.jp/
※2:https://tv.cctv.com/2020/10/13/VIDEdHz4n3UfDxWisttQsSNo201013.shtml
※3:http://tv.cctv.com/2020/10/15/VIDEwOJcjJuKHBqgTJ7nPWHD201015.shtml
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◇以下、中国問題グローバル研究所のホームページでも配信している遠藤 誉所長の考察を2回に渡ってお届けする。
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10月14日、習近平は自分の父・習仲勲が提案し建設した深セン経済特区設立40周年記念式典に出席した。総書記就任後、最初に視察したのも深センで、グレーターベイエリア構想とデジタル人民元に力を入れている。
◆深セン経済特区構想は習仲勲が提案し中央に決議させた
今では「中国のシリコンバレー」と呼ばれるほどハイテク企業が集中している深センを、「経済特区」として認めさせたのは習近平の父・習仲勲だ。
1962年に小説『劉志丹』を書かせて反党活動を行ったという冤罪で国務院副総理の座からいきなり罪人にされ、1978年まで捕らわれの身であった習仲勲は、習近平やその母親・斉心などの奔走により、ようやく釈放された。
釈放に尽力したのは、当時の中共中央組織部部長・胡耀邦と、全人代常務委員会委員長・葉剣英である。
1978年2月24日から人民大会堂で開催された第五回政治協商会議全国委員会第1次会議に出席し、全国政治協商会議常務委員会委員に選ばれるところから再出発が始まった。4月5日に第二書記として広東省に派遣された。
その頃の深センはカエルが鳴いているようなあぜ道があるだけで、それも農民あるいは漁民の多くは隣接する香港に非合法的に逃亡する者が多く、農地は荒れ果てていた。逃亡者が減らない原因は、深センが貧乏だからだ。夜ともなると、橋一つ隔てた向こうには、香港の高層ビルとネオンサインが輝いていた。
そこで習仲勲は何としても深センを豊かにしようと血みどろの努力をするのである。
文化大革命(文革)は1979年10月に終わったばかりで、庶民に商売をさせようとすると文革のスローガンの一つだった「走資派(資本主義に走る者)」という批判が来る。それでも逃亡者を防ぐためには経済を繁栄させるしかない。当時の習仲勲の努力は「殺出一条血路」(命懸けで闘って血路を開く)という言葉で表されている。
習仲勲等は1930年代、陝西・甘粛・寧夏などの一帯で「陝甘寧革命特区」という革命根拠地を創っていた。
そこで習仲勲は深センなど、いくつかの広東省の都市を「経済特区」と位置づけ、「特別の経済交易に関する権限を広東に欲しい」と中央に要求し、「深セン経済特区」が誕生するに至ったのである。
1979年4月に「輸出特区」として、1980年8月には「経済特区」として正式批准が国務院から下りたが、改革開放の号令がかかる1978年12月よりも前から、習仲勲は切羽詰まった形で、改革開放を先行する行動を実際に取っていたことになる。改革開放の先駆者は習仲勲であり、「経済特区」のアイディアは習仲勲が出したものである。
1980年11月、再び中央に返り咲き、1981年3月には葉剣英の尽力で中共中央書記処書記に就任した。
しかし1987年1月に胡耀邦が中共中央総書記の座から無理矢理に引きずり降ろされたのだが、そのとき机を叩いて絶対にダメだと反対したのは習仲勲一人だった。1989年4月の胡耀邦の死によって同年6月に天安門事件が起きたわけだが、習仲勲は天安門事件においても民主を叫ぶ学生に同情したりしたため、1990年にはトウ小平により、これも全人代への出席をいきなり阻まれ、再び失脚した。
◆総書記就任後、最初の視察地を深センにした習近平
2012年11月15日、第18回党大会一中全会で中共中央総書記に選ばれた習近平は、総書記就任後の最初の視察先として「深セン」を選んだ。
ここは父・習仲勲が屈辱の16年間を耐え抜いて、死力を尽くして開拓した「経済特区」なのである。
すでにこの世にいない父の無念を悼むかのように、習近平は「深セン」の飛躍的発展に執念を燃やしている。
改革開放40周年記念の2018年10月22日、習近平は再び深センを訪れ、4日間にわたって「深セン・香港・マカオ」を連結するグレーターベイエリア構想に関する国家戦略を強調した。そして深センを「先行モデル地区」として指定し、40年前に父・習仲勲が深センを経済特区に定めた道をなぞるように、グレーターベイエリア構想に尋常ではない執念を燃やしている。
今回の深セン訪問は、第3回目となり、10月13日午後に深センに着いているので、その日から中央テレビ局CCTVでは報道に力を入れ(※2)、続けて14日も15日も連続して習近平の式典参加と「重要講話」を報道している(※3)。深セン市のGDPは40年前の1万倍になったそうだ。
(本論はYahooニュース個人からの転載である)
「父・習仲勲の執念 深セン経済特区40周年記念に習近平出席(2)【中国問題グローバル研究所】
」へ続く。
写真:ロイター/アフロ
※1:https://grici.or.jp/
※2:https://tv.cctv.com/2020/10/13/VIDEdHz4n3UfDxWisttQsSNo201013.shtml
※3:http://tv.cctv.com/2020/10/15/VIDEwOJcjJuKHBqgTJ7nPWHD201015.shtml
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