みんなで選ぶ酒文化の巨人 第1位は鳥井信治郎
[19/08/16]
提供元:共同通信PRワイヤー
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2019年8月16日
株式会社酒文化研究所
【酒好きほぼ100人に聞くアンケート「酒飲みのミカタ」】
日本の酒文化史に残る巨人をみんなで選びました。
どの世界にも、時代を画する大仕事をなしたり、後世に強い影響を与えたりした人物がいます。IT業界ならばGAFAの創業者たち、昭和の日本映画ならば小津安二郎、黒澤明、溝口健二などでしょうか。今回の「酒飲みのミカタ」は、日本の酒文化に大きな足跡を残した「酒文化の巨人」を、酒好き100人の投票で選んでみました。
トップの鳥井信治郎は生誕140周年
日本の酒文化に貢献した方を10名リストアップして、そのなかから特に貢献したと思う方3人を選んでもらいました。栄えある第1位はサントリーの創業者で日本に洋酒文化を根付かせた鳥井信治郎です。得票数はただ一人7割を超え頭ひとつ抜けています。
【画像: https://kyodonewsprwire.jp/img/201908139640-O1-2en8P8s0 】
信治郎が生まれたのは1879年(明治12年)、今年はちょうど生誕140年にあたります。彼は大阪・船場で両替商の次男として生まれ、洋酒も商っていた薬種問屋の小西儀助商店に奉公に出ます。20歳で独立し鳥井商店を開業すると葡萄酒の製造を始めました。
1906年に寿屋洋酒店に店名を変更し、翌1907年に「赤玉ポートワイン」を発売し大ヒット商品に育てます。すっぱくて渋いと嫌われたワインを日本人の口に合うように調合し、新聞広告で大々的に告知、後には初の美人ヌード写真を使った広告ポスターつくって話題をさらいました。こうした多方面での創意工夫を重ねて、日本酒全盛の時代にワインを定着させることに成功したのでした。
【画像: https://kyodonewsprwire.jp/img/201908139640-O5-3d5M6I0w 】
赤玉ポートワインの主力工場として建設されたサントリースピリッツ大阪工場正門前にある鳥井信治郎の銅像。
そして、1924年には山崎工場(現サントリースピリッツ山崎蒸溜所)を稼働させ、日本で初めての本格的なウイスキーづくりに取り組みます。今では世界的に高い評価を得るようになった日本のウイスキーの記念すべき第一歩でした。1929年にはビール事業にも乗り出し(1934年に撤退)、まさに日本の洋酒の礎をつくった「酒文化の巨人」です。
こうした信治郎の新しいことに挑み続けるチャレンジングな精神は、彼が生前によく口にした「やってみなはれ」という言葉を象徴にされ、今もサントリーのDNAとして引き継がれています。
第2位は竹鶴正孝 第3位は6代目 山邑太左衛門/開高健
鳥井信治郎に続く第2位はニッカウヰスキーの創業者でNHK朝ドラ「マッサン」のモデルとなった竹鶴正孝です。スコットランドでウイスキーづくりの技術を学び、帰国後に寿屋(現サントリーホールディングス)のウイスキーづくりを支えます。のちに独立してニッカウヰスキーを設立、サントリーとともに世界に日本のウイスキーの品質の高さを知らしめました。
【画像: https://kyodonewsprwire.jp/img/201908139640-O8-1mn95D39 】
竹鶴正孝が創業したニッカウヰスキー余市蒸溜所
第3位には日本酒から6代目 山邑太左衛門がランクインしました。太左衛門は灘の銘酒『櫻正宗』の酒蔵の6代目で1840年頃に、酒づくりに向いた水として知られる「宮水」を発見しました。品質向上にことのほか熱心だった彼は、自社の2つの工場で常に一方の酒がおいしく仕上がることから、両者の違いを徹底的に比較し、水の違いが酒の良し悪しを左右していることを突き止めます。これが「宮水」とされ、今も灘の酒蔵の多くがこの水を仕込み水に使っています。
【画像: https://kyodonewsprwire.jp/img/201908139640-O10-7CK8GTpq 】
西宮市にある宮水の碑。宮水取水地に立つ
作家の開高健は同率で第3位に選ばれました。芥川賞を受賞した『裸の王様』やルポルタージュ文学の名作『ベトナム戦記』など数々の文学作品を残した彼は、寿屋(現サントリーホールディングス)の宣伝部時代に人間らしくやりたいナ/トリスを飲んで/人間らしくやりたいナ/人間なんだからナ」の名コピーを生み出しました。
5位のウイリアム・コープランドは、明治初期に横浜にキリンビールの前身であるスプリングバレーブルワリーを開設した人物。6位の川上善兵衛は、明治期に岩の原葡萄園(上越市)を開園し本格的なワインづくりに取り組み、マスカット・ベーリーA種など独自品種を開発、全国に普及させ「日本ワインブドウの父」と称される人物です。
そのほかの方々の業績は次のとおりです。
・坂口謹一郎(1897年〜1994年。醸造学者で歌人。昭和30年台から『世界の酒』『日本の酒』(岩波書店)など酒の著作を次々に刊行、日本の酒業界で長く指導的な役割を果たす)
・小川原良征(1946年〜2017年。アルコールを添加した清酒が好まれるなか、本来の純米酒に立ち返ることを提唱し、1987年、日本で初めて全量純米酒の蔵に戻す。多くの賛同者が彼のもとに集い純米酒復権をリードした)
・佐々木久子(1927年~2008年。1955年に雑誌『酒』を創刊し、数多くの文化人を日本酒の世界に巻き込む。作家たちの飲みっぷりを格付けした「文壇酒徒番付」は同誌の看板企画となった)
・浅井昭吾(1930年〜2002年。酒造技術者で酒文化研究家(ペンネームは麻井宇介)。メルシャンで高品質な日本ワインづくりをリードした。その後、彼の薫陶を受けたつくり手たちは「ウスケボーイズ」と呼ばれ、現在の日本ワインを牽引している)
・穂積忠彦(1926年〜1997年。国税庁醸造試験場を経て独立。中小の酒蔵やワイナリー、ブルワリーの技術的・精神的な後ろ盾となるほか、自家醸造解禁運動をリード。海外で清酒の製造も指導した)
【調査概要】
調査時期:2019年7月22日〜27日
調査方法:インターネットによる自記入式アンケート調査
サンプル数:100人(酒好きを自認する方々)
株式会社酒文化研究所
【酒好きほぼ100人に聞くアンケート「酒飲みのミカタ」】
日本の酒文化史に残る巨人をみんなで選びました。
どの世界にも、時代を画する大仕事をなしたり、後世に強い影響を与えたりした人物がいます。IT業界ならばGAFAの創業者たち、昭和の日本映画ならば小津安二郎、黒澤明、溝口健二などでしょうか。今回の「酒飲みのミカタ」は、日本の酒文化に大きな足跡を残した「酒文化の巨人」を、酒好き100人の投票で選んでみました。
トップの鳥井信治郎は生誕140周年
日本の酒文化に貢献した方を10名リストアップして、そのなかから特に貢献したと思う方3人を選んでもらいました。栄えある第1位はサントリーの創業者で日本に洋酒文化を根付かせた鳥井信治郎です。得票数はただ一人7割を超え頭ひとつ抜けています。
【画像: https://kyodonewsprwire.jp/img/201908139640-O1-2en8P8s0 】
信治郎が生まれたのは1879年(明治12年)、今年はちょうど生誕140年にあたります。彼は大阪・船場で両替商の次男として生まれ、洋酒も商っていた薬種問屋の小西儀助商店に奉公に出ます。20歳で独立し鳥井商店を開業すると葡萄酒の製造を始めました。
1906年に寿屋洋酒店に店名を変更し、翌1907年に「赤玉ポートワイン」を発売し大ヒット商品に育てます。すっぱくて渋いと嫌われたワインを日本人の口に合うように調合し、新聞広告で大々的に告知、後には初の美人ヌード写真を使った広告ポスターつくって話題をさらいました。こうした多方面での創意工夫を重ねて、日本酒全盛の時代にワインを定着させることに成功したのでした。
【画像: https://kyodonewsprwire.jp/img/201908139640-O5-3d5M6I0w 】
赤玉ポートワインの主力工場として建設されたサントリースピリッツ大阪工場正門前にある鳥井信治郎の銅像。
そして、1924年には山崎工場(現サントリースピリッツ山崎蒸溜所)を稼働させ、日本で初めての本格的なウイスキーづくりに取り組みます。今では世界的に高い評価を得るようになった日本のウイスキーの記念すべき第一歩でした。1929年にはビール事業にも乗り出し(1934年に撤退)、まさに日本の洋酒の礎をつくった「酒文化の巨人」です。
こうした信治郎の新しいことに挑み続けるチャレンジングな精神は、彼が生前によく口にした「やってみなはれ」という言葉を象徴にされ、今もサントリーのDNAとして引き継がれています。
第2位は竹鶴正孝 第3位は6代目 山邑太左衛門/開高健
鳥井信治郎に続く第2位はニッカウヰスキーの創業者でNHK朝ドラ「マッサン」のモデルとなった竹鶴正孝です。スコットランドでウイスキーづくりの技術を学び、帰国後に寿屋(現サントリーホールディングス)のウイスキーづくりを支えます。のちに独立してニッカウヰスキーを設立、サントリーとともに世界に日本のウイスキーの品質の高さを知らしめました。
【画像: https://kyodonewsprwire.jp/img/201908139640-O8-1mn95D39 】
竹鶴正孝が創業したニッカウヰスキー余市蒸溜所
第3位には日本酒から6代目 山邑太左衛門がランクインしました。太左衛門は灘の銘酒『櫻正宗』の酒蔵の6代目で1840年頃に、酒づくりに向いた水として知られる「宮水」を発見しました。品質向上にことのほか熱心だった彼は、自社の2つの工場で常に一方の酒がおいしく仕上がることから、両者の違いを徹底的に比較し、水の違いが酒の良し悪しを左右していることを突き止めます。これが「宮水」とされ、今も灘の酒蔵の多くがこの水を仕込み水に使っています。
【画像: https://kyodonewsprwire.jp/img/201908139640-O10-7CK8GTpq 】
西宮市にある宮水の碑。宮水取水地に立つ
作家の開高健は同率で第3位に選ばれました。芥川賞を受賞した『裸の王様』やルポルタージュ文学の名作『ベトナム戦記』など数々の文学作品を残した彼は、寿屋(現サントリーホールディングス)の宣伝部時代に人間らしくやりたいナ/トリスを飲んで/人間らしくやりたいナ/人間なんだからナ」の名コピーを生み出しました。
5位のウイリアム・コープランドは、明治初期に横浜にキリンビールの前身であるスプリングバレーブルワリーを開設した人物。6位の川上善兵衛は、明治期に岩の原葡萄園(上越市)を開園し本格的なワインづくりに取り組み、マスカット・ベーリーA種など独自品種を開発、全国に普及させ「日本ワインブドウの父」と称される人物です。
そのほかの方々の業績は次のとおりです。
・坂口謹一郎(1897年〜1994年。醸造学者で歌人。昭和30年台から『世界の酒』『日本の酒』(岩波書店)など酒の著作を次々に刊行、日本の酒業界で長く指導的な役割を果たす)
・小川原良征(1946年〜2017年。アルコールを添加した清酒が好まれるなか、本来の純米酒に立ち返ることを提唱し、1987年、日本で初めて全量純米酒の蔵に戻す。多くの賛同者が彼のもとに集い純米酒復権をリードした)
・佐々木久子(1927年~2008年。1955年に雑誌『酒』を創刊し、数多くの文化人を日本酒の世界に巻き込む。作家たちの飲みっぷりを格付けした「文壇酒徒番付」は同誌の看板企画となった)
・浅井昭吾(1930年〜2002年。酒造技術者で酒文化研究家(ペンネームは麻井宇介)。メルシャンで高品質な日本ワインづくりをリードした。その後、彼の薫陶を受けたつくり手たちは「ウスケボーイズ」と呼ばれ、現在の日本ワインを牽引している)
・穂積忠彦(1926年〜1997年。国税庁醸造試験場を経て独立。中小の酒蔵やワイナリー、ブルワリーの技術的・精神的な後ろ盾となるほか、自家醸造解禁運動をリード。海外で清酒の製造も指導した)
【調査概要】
調査時期:2019年7月22日〜27日
調査方法:インターネットによる自記入式アンケート調査
サンプル数:100人(酒好きを自認する方々)