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直木賞作家の宮部みゆき先生、京極夏彦先生がN/S高生に感動授業!「感動とは与えられるものではありません!!」

各界の豪華講師陣が「世の中のリアル」を伝える【特別授業】第四回を開催!

日本の文化振興に寄与するための事業を手掛ける公益財団法人角川文化振興財団(理事長:川上量生)は、<「世の中のリアル」を伝える>をメインテーマに、未来に夢を抱くN高等学校・S高等学校の生徒達に向けた【学園生のための特別授業】を、株式会社ドワンゴが提供する学習コンテンツアプリN予備校を用いて、10月24日(火)に行いました。
第四回は直木賞作家の宮部みゆき先生、京極夏彦先生をお招きし、<感動するって何だろう?>と題して実施。全国から多くのN/S高生が参加し、会場でのリアル受講者からは創作や執筆、人生についての質問や相談も飛び交い、授業は熱い感動に包まれました。




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司会進行は宍戸健司(編集者)〈以下、宍戸(司会)〉:それでは一つ目のテーマから、先生方の生い立ちを伺います。


宮部先生:私は高校を出て速記の学校に行って、6年間ぐらい速記者をしていました。経歴にある法律事務所勤務との二足のわらじを履いていました。下町のサラリーマン職工の娘でしたので、家に本らしい本がなくて、母か同居していた叔母が、時々買ってきたベストセラー本をこっそり読んだり、姉がお友達から借りてきてもなかなか読まない創元推理文庫を私が先に読んでしまって、犯人をバラして怒られたりしていたような家庭でした。
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京極先生:「なぜ小説家になったのか?」とよく聞かれるんですが、たまたまなんです。小説家になろうと思ったことは、生まれてからこの歳になるまで一度もありません。僕も最初はデザインの仕事をしていましたが、基本的に「仕事」がしたかっただけで、デザインでなくてもよかったんですよ。結果的にバブル経済が崩壊し、日本経済がガタガタになって、食べていくのが難しくなった時に、たまさか小説を書いて、たまさかデビューすることになって、それがある程度の収入になったので、仕事として30年続けているだけです。ただ、僕は子供の頃から全く運動をしないので、友達よりは本は読んでいました。でも家に親の本がたくさんあったかというと、なかったです。
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宍戸(司会):学生時代に影響を受けた本とか作家志望の人へのアドバイスはありますか?


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宮部先生:中学3年生の時に『歴史を騒がせた女たち』(文春文庫)という歴史読み物を読んで、永井路子さんのファンになりました。歴史の中の女性たちが実は大切な役割を果たしていたということが書かれていて、そこから歴史小説に興味を持ちました。私は全然面白くない青春時代を都立高校で過ごしていましたが、その時に人生の支えというか、大人になるための杖になってくれたのが、永井先生の本と佐藤愛子先生の本でした。佐藤先生の本では、最初に読んだのが、『女の学校』(集英社文庫)というエッセイ。永井先生と佐藤先生が私の高校時代の師範でした。皆さんもそれぞれに運命的な本との出会いがあるし、明日にも出会うかもしれません。今はあまり決め打ちせずに、たくさんの色々な作家や小説に出会っておくのが良いと思いますね。

京極先生:僕には本の順番は付けられません。面白くない本はないですから。役に立たない本もないです。「この本面白くない」とか、「こんなの役に立たない」と思えたとしたなら、自分に読み取る力がないんだと思って生きてきました。読んだ本は、どんな形であれ確実に身になってるはずですよ。方向性を定められないなら、手あたり次第読んでみていいと思います。自分に合わなかったらやめればいいんです。頭3行読んだだけでも読書です。タイトルを読んだだけでも、中身を読んだのと同じような何かは感じているはずです。ですから「目についたものは何でも読みましょう」というしかないですね。「あなたの運命を決めた一冊は?」と言われると、たぶん何万冊とかになってしまいます。全部紹介しようとするとこの時間は終わってしまいますので、それはいたしません。

宍戸(司会):リアル受講の会場から質問を受け付けたいと思います。ヨンペイ(S高3年)さんどうぞ。
ヨンペイ:作品のストーリーが初めて浮かぶ瞬間、どのような気持ちになりますか?


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宮部先生:このご質問には、いつも一定のお答えをしています。最初にタイトルが出てくるんですね。ぼんやりと「こんなものが書きたいなあ」とまだ混沌としていてストーリーになっていない時に、「ぽん!」とタイトルが出てくると同時にストーリーが見えてくるんです。そういうことが起こった日は、超ハッピーですね。

京極先生:それはうらやましい限りですね。僕は仕事でやってるだけですから。僕はタイトルも構造もすべて一遍にできます。僕の小説にはストーリーがないんです。プロットはあるんですが、二次元で表現することができないので、プロットを作っている暇があったら、書いたほうが早いんです。どんなに厚いものでも、どんなに薄いものでも考える時間は同じで、大体30分ぐらいです。ただ長い作品は、出力に時間がかかるだけです。必要な情報を選択し、その情報を構造に合わせて並べ、それが終わった段階で、タイトルも内容もすべてできる。あとはひたすら出力するだけですから、面白くも何ともないです。小説を書いていて嬉しい瞬間というのは……「ない」です。

宍戸(司会):それでは次のテーマ「ひとつの小説ができるまで」。アイデア出しから、執筆、出版と、小説が読者に届くまでの過程をお願いします。


宮部先生:こういう時は失敗するケースをお話したほうが分かりやすいと思います。私には、これまでに、お蔵入りしている長編が3本あります。引退するまでに、3本全部は仕上げられなくても、2本は仕上げたいなと思っているんですが、全部失敗する共通の理由がありました。それは、どこから書くかを間違えているんですね。ミステリー作家なので、事件を書くんですけれども、誰の目から書くか、刑事さんの目から書くのか、犯人の目から書くのか、被害者の目からか、新聞記者か…。それから事件が起こっている時間軸のどこから書くのか、スタート地点をどこにするのか、まさに事件が起きているときから書くのか、これから起きるときか、起きて報道も沈静化したときか…。それを決めないと書き始められないんですね。いざ書き始めて、しばらく書いていくと、「ああ、出発点を間違えた!」とか、「これは主人公を新聞記者にしたのはすごい間違いだった!」とかになると途中から直せないので、お蔵になるんです。

京極先生:僕は極めてシステマチックに作るので、迷うのは「ここの漢字をひらくべきか」「異体字を使うべきか」「改行のときに出来る隙間が何かカッコ悪くないか」とか、そういうことだけですね。それはデザインとしてではなく、意味としてです。たとえば「1行のストロークが長いか短いか」「どこで改行するか」「漢字が多いか少ないか」で読む速度も変わってきます。それから隣の行というのは必ず見えているんです。隣の行に凄いことが書いてあるのが、あらかじめ分かってしまったら、「どうせこの後、すごいことになるだろう」ということが、0.2秒でも0.3秒でも先に分かってしまう。わかっちゃうのとわからないのとでは読み味が違うじゃないですか。そういうことばっかり考えています。

宍戸(司会):事前質問から、作品に登場するキャラクター設定で心がけていることは?


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宮部先生:今、もっぱら江戸ものを書いているので、市井ものだと、人の名前って限られているんですね。お吉ちゃん、お美代ちゃん、店はみんな越後屋。『三島屋変調百物語』で江戸へ出稼ぎで出てきた人や、ご先祖様が江戸に出てきて、江戸にいる人の生まれ故郷の田舎ホラーを書くことが多いので、地方の藩のお殿様の名前から、その語り手の祖先の何兵衛さんまで考えなければならない。で、連載で書いているときはいいんですけれど、いざ一冊にまとめた時に同じ名前がばんばん出てきてしまうので、ちょっと変えなければならないんです。『ぼんぼん彩句』(KADOKAWA)という短編集でも、単行本にするために12本の短編を揃えてみたら、何度か同じ名前が出てしまって、かなり変えたんですが、変え切れないのがひとつ残って、謎を作ってしまいました。今の私には、名前被りというのが一番の問題ですね。

京極先生:ミステリーって同じ名前が出てくると「ややこしいからよせ!」とか、端役なのにフルネームが付いていると「重要な人っぽく読めるからやめろ!」とか言われるんですけれど、もの凄く抵抗がありましてね。現実世界では同じ名前の人が何人もいます。「お前も鈴木か!」「俺もなんだよ!」みたいなもんでしょ。小説、特にミステリーだけそれがNGなのは不自然だろうと。『鵼の碑』でも、実際には登場しない、会話に出てくるだけのどこかのおばあさんのフルネームまで全部付けました。「こいつもう全然出てこねえじゃん」「わっははざまをみろ」的な(笑)。それからキャラクターに関していうと、キャラクターだけを抜き出してお読みになる読者の方がいらして、それは全然OKなんですね。ただキャラクター小説とそうでない小説とでは作り方が違う。僕の場合は先ほども言ったように構造が先にあるから、キャラクターは構造を支える部材にすぎなくて、名前なんかどうでもいいし、キャラクターは使い勝手がよければそれでいいって感じですね。「使いにくかったら殺せばいいや」くらい(笑)。それでも何とか面白く読めるように工夫してはいるんですが。

宍戸(司会):最後のテーマ「感動するって何だろう?」という本日の本題となります。


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宮部先生:読売新聞の日曜書評欄を書く読書委員を務めています。ちょうど10年目に入ったところでして、つい最近、『犬が看取り、猫がおくる、しあわせのホーム』(光文社)という、神奈川県にある特別養護老人老後ホームで、犬や猫が高齢者と一緒に住んでるホームの本を紹介しました。まず驚いたのは、この本の中には「ペット」という言葉が出てこないんですよ。高齢者の方が、ずっと家族として一緒に暮らしてきた犬猫を連れて入居する場合がある。それから、同伴入居してきたワンちゃんやネコちゃんがそこで飼い主を看取って、ホームの中で次の飼い主さんを見つける場合もあるそうです。そのホームの歩みについて書かれている本なんですけど、評を書きながら泣けてしまいました。私にとっては、「感動すること」の中に、自分の仕事に占めている書籍、本の世界というのが、すごく大きいなあと思っています。

京極先生:「感動って何だろう?」って考える時に、今の宮部さんのお話はすごく腑に落ちるお話しなんですね。最近、納得のいかない言葉がいくつかあるんです。「感動をもらう」とか「感動をあげたい」とか、いうでしょう。感動はやりとりできませんよ。感動とは、「何かをする」、あるいは「何かを受容する」ことによって、「その人の感情が揺り動かされる」ことを言うんです。つまり非常に個的なものなんですね。だからすごく嫌な思いであっても、それは感動の一種ではある。一方読書というのはとても能動的なものです。強制されてできるものではない。その人が読もうと思わなければ、一文字も進まないんですね。感動と読書、その二つを合わせて考えてみましょう。「本を読んで感動した」というのであれば、それは「読書したこと」で感動しているんですよ。肝心なのは読書という行為なんです。読書をすることによって感動しているんです、人は。テキストの中身はこの際どうでもいいんです。そこから何を汲み出せたか、汲み出したものを自らの体験に引き寄せる、それで自分の記憶が呼び覚まされる、そうしたことで、何らかの感情が発露する、それが感動ですよ。犬も猫も存在しない砂漠で暮らしている人は、犬や猫の話を読んでも感動できないでしょう。宮部さんは確実に自らの体験や自らの感情とリンクする部分を発見できた。だから感動した。でも別の人は感動できないかもしれない。物語というのは、読んだ人が作るんです。どんな物語も読んだ人の中に生まれるんです。どんな感動も読んだ人の中から湧き上がるもの、その人の中だけにあるものなんです。だから感動を押し付けられても困るんですよ。「感動巨編!」とか言われても「全米が泣いた!」とか言われてもねえ。また全米はよく泣くんですよ(笑)。したがって「どうやったら感動させられるでしょうか?」というのは無理筋の質問なんです。小説家は他人の感動をどうこうできるような立場にはないんですね。ただ、色々な人が感動できるような装置を作ってあげることはできます。

宮部先生:職業作家としては、多様な読み方をしてもらえる作品、様々な感動を呼び起こせる作品を、もちろん作りたいと思ってみんな頑張っているんだけれども、自分一人だけ、オンリーワンでやる必要はないんですよね。同時代の作家は何人もいるわけですから、みんなでそれぞれ自分の特技とか専門領域とか、好きなこと苦手なこと、やりたいことやりたくないことを色々分担し合いながら、たくさんの野の花が咲くように、同時代の作家が色々な方向からアプローチすることが大切なんだと思います。

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京極先生:最近はSNSなんかの中だと、特に分断され気味ですよね。自分と同じ趣味趣向の人たちだけが集まって、その中で「いいね」とか言っているわけで。外からは見えないし、見えた時にはけんかになったり、つぶし合ったりすることにもなりかねない。それは良い形ではないなというのは常に思っていて。もちろん同好の士が集まって何かを面白がるというのはとても良いことだと思うんですけれど、一方で仕事でそれはだめだろうと思うんです。全く趣味嗜好が違う人、全く主義主張の違う人にも届かないと、職業作家としてはいかんのだろうとは思うんですね。騙してでも(笑)。

宮部先生:自分とはまったく違う人間になるというチャレンジをしてどこまで書けるか…。京極さんにしろ、私にしろ、少なからず連続殺人者の心理を書いているので、そのときはなりきってますからね(笑)。怖いけど。

京極先生:随分殺しましたからね。

宍戸(司会): RISA(N高3年)さんから感動についての質問です。
RISA:誰かを感動させる物語というのが自分にとってとても難しく感じます。宮部みゆき先生や京極夏彦先生にとって感動を与える物語とはどのようなものですか?


宮部先生:「はいっ!」と差し出せるものではないですね。受けた人の心で育つもの。私たちがどんなに、お話としてはいい話を書いたとしても、読む方の中には、その中に偽善を感じたり、「何かすげえ作り話っぽいなあ」「これ嫌だなあ」とか思う場合もあるかもしれません。私は、実話怪談を探してよくYouTubeを見てまして、その流れで「今日あった面白いこと」のまとめとかも見るようになったんですね。それで、「凄くいい話なんだけど、私はピンとこないな」と思う事もあるし、読んでる傍からぼろぼろ泣き笑いしてしまうぐらい、ほんの3行ぐらいでも心を揺さぶられる話もある。キャッチする私が、その時どんな状態かに左右されると思うんです。だから、たとえ趣味でお書きになるにしろ、仮想の中での読者の人に向けて書いているわけですから、まずは何も考えずに素直に渡すつもりでいいのではないでしょうか。京極さんのお話にありましたように、「感動させよう」とか、「感動してもらわないと良い作品にならない」ということは全然ありません。感動は後から芽吹いてくるものなんです。

京極先生:「誰かを感動させたい。その誰かって誰?」という話ですよね。「感動」という言葉を「笑わせよう」と言い換えてみましょう。あなたが良く知っているお友だちを笑わせることは、比較的簡単だと思います。「こいつはここに絶対ひっかかるだろう」「これは受けるツボだぜ」と分かっているから。で、対象が二人に増えたとする。二人の笑いのツボは同じではありません。だから二人を笑わせるのは、一人を笑わせるより難しいです。10人になるともっと難しい。100人になるともう何が何だかわかりません。1000人、10000人を笑わせられるエンターテイナーというのもいるでしょうが、100人笑わせようと思って95人笑わせられても5人は怒っているかもしれないんです。「感動させる」のは「笑わせる」のと同じことなんですね。感情の動きなんですから。「誰を感動させたいのか?」まずそこをはっきりさせましょう。「不特定多数をみんな感動させたい」、これは大変なことです。私たちが日々努力していることです。まず「誰かに喜んでもらえる」という具体的なものをひとつ用意するのはとても有効なことかもしれません。

宍戸(司会): 他に質問のある方?Walker(N高1年)さん、どうぞ。
Walker:感動は自分を成長させるために必要な感情だと思います。感動することがその人の人生に与える影響についてどう考えますか?


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宮部先生:若い時には私もWalkerさんと同じですごく真面目に考えて、「どうして今の自分の生活はつまらないのだろう」とか「どうやったらもっと何かぱっとするんだろう」とか、「どうやったらかっこいい大人になれるんだろう」と一生懸命考えたと思うんです。でもいざ社会に出てしまったら、毎日流されていくばかりで、そういうことを考えられなくなってしまったんですね。自分がこの仕事に入ってからでもきっと感動することがいっぱいあったと思いますが、「あの時は感動しました」とか「あの時はもう忘れられません」とかいうのは優等生みたいで、「何か嘘っぽいなあ」「何か一応行儀よくいっているだけだ」というふうな気がします。ただ、「何が自分を動かしてくれるんだろう」「何が心を支えてくれるんだろう」と冷静に振り返った時に、若い時に、学生時代に読んだ本の中にあった言葉を支えにしてきたとは思うんです。それは感動に限らず、憧れでもあり、時には反発でもあります。今読み直すと、若い時と違うところで感動するんですよね。「16歳の私は佐藤愛子先生のこんな文章に感動したけれど、今の私はこっちの方が身に染みるんだよ」ということもある。だから今、Walkerさんが考えていることを、あまり思い詰めずに、むしろ積極的にどんどん色々なものを読んだり、書いたり、人に会ったり、人の話を聞いたり、景色を見たりしている中で、心の中に自然に溜まっていくものの中から、いつか答えが見つかってくると思います。

京極先生:僕は子供の頃から『スタートレック』に出てくるバルカン人に憧れていたりしていたくらいですから、パッションよりロジックの方を大事にしていた気がします。ですから、実をいうとそういう意味での感動をした記憶はあまりないんです。でも一方で先ほども言ったように感動は心の動きでしかないわけですから、そういうふうに捉えるならば、ほとんどのものごとに感動していたと言い換えることもできますね。そうしてみると、たくさんの感動の中から、自らの成長に貢献したものだけを選び取って、このおかげで「私の人生は花開いた」とか、「豊かになった」とか、そういうふうに考えるのはちょっともったいないと思うんですね。どんな些細なことでも、どんな小さなことでも必ず何かの役に立っています。今のあなたを形成しているのは今まで生きてきたすべての蓄積です。「これによってガラッと人生が変わった」とか、「この一言によって生きる道を見つけた」とか、そういうのはすべて思い込みに過ぎません。思い込みを捨てたところから進歩が始まります。「私ってこういう人だから」とか、「僕にはこれができないんだよね。こういう人間だから」とか、それも思い込みなんです。ハンディキャップがないかぎり、誰かにできていることは大体誰にでもできますから。しないだけ。そういう意味では何かを足掛かりにするのはいいけれども、あまり意識せずに色々なものを体験し吸収して、さまざまな小さい感動を積み重ねていくのもいいかなと思う次第です。

宍戸(司会): 本日の授業はいかがでしたか?


宮部先生:若いっていいな!って思いますね。いろんな可能性があるし、みなさんがピカピカしてるのが羨ましい。楽しかったです。

京極先生:面白かった! じいちゃんは面白かったぞ!
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