どんなに困難でも、食糧を届ける 〜国連WFPアジア局長・忍足謙朗(おしだりけんろう)〜
[14/09/29]
提供元:PRTIMES
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国連WFPアジア地域局長の忍足謙朗(おしだり・けんろう)は、国連WFPに25年以上勤務し、東欧、アジア、アフリカの紛争地などで人道支援に携わってきました。その忍足がこの9月末で国連WFPを退職します。四半世紀にわたる支援活動について、忍足に話を聞きました。
- 国連WFPで支援活動に従事する中で、最も心に残った出来事はなんですか?
1999年、コソボ紛争のときです。ユーゴスラビア軍がコソボのアルバニア系住民を迫害し、80万にも及ぶ人が隣国のアルバニアやマセドニアや、コソボ内の山中などに逃れていました。NATO軍の介入により紛争がおさまり始めたとき、私は小麦を積んだトラックの車列とともに、国連WFPの支援チームの第一陣としてコソボに入りました。
まだ建物が燃えているような状況で、銃声も聞こえ、地雷の危険もあったので、最初の夜は、トラックの小麦粉の袋の上で寝ました。
次の日、山中の森に入り、そこに逃げ込んでいた人たちに対して、コソボでの初めての食糧配給を行った時のことです。私が配給の指示を出していると、6歳ぐらいの女の子が近寄ってきて、「食べ物、ありがとう」と言いながら、花束をプレゼントしてくれたのです。それは、その子が辺りの野の花を摘んでつくってくれた小さな花束でした。思いがけないプレゼントが強く心に残っています。
カンボジアの内戦が終わり、復興に携わった時のことも印象に残っています。地域の役に立つインフラを整備する工事を実施し、工事で働いた人たちに対し、給料の代わりに国連WFPが食糧を配るという形で食糧支援を実施しました。すると、工事に参加すれば食糧がもらえる、ということで、あちこちで猛烈な勢いで貯水池や道路、学校などの建設が進んだのです。たとえば、アンコールワットの遺跡のまわりの道路は、ほとんどがこの時に国連WFPの食糧支援によって建設されたものです。復興が進み、それが今でも残っていることがうれしいです。
- 今までで一番大変だった経験はなんですか?
危険な目に遭うことはそれなりにありました。銃を突きつけられたこともありますし、家に手榴弾を投げ込まれたこともあります。戦闘中の場所では、狙撃手が撃ってくるかもしれない道を、全速力で突っ切りました。でも、僕はこの仕事が大好きで、あまり大変だとは思いませんでした。
一番大変だったのは、大きな緊急支援活動を初めて立ち上げた時のことです。1999年、私は国連WFPのコソボ・バルカン半島諸国特別代表として派遣され、初めて大きな緊急支援を指揮しました。銃声の聞こえる中、全く何もないところから2週間ほどで500人のスタッフを雇い、7つの現地事務所を立ち上げたのは、大きな挑戦でした。
この時は、非常事態だったため、多少、手荒なこともしました。
求人広告を町のあちらこちらに貼り、採用面接に訪れた人は、英語ができれば片っ端から採用しました。
また、食糧用の倉庫をいくつか借りる必要があったのですが、倉庫の持ち主が戦闘から逃れるため避難しており、連絡がつきません。倉庫の賃借契約を結ぶこともできなかったので、スタッフに国連WFPのシールを渡し、いい倉庫が見つかり次第、無断でもしょうがないので貼ってくるように伝えました。
当時は銀行も機能しておらず、送金すらできません。そこで、国連WFPが運航していた国連機に毎日のように万単位でドル札を積んで活動資金を運んでいました。スタッフは、多額の現金を懐にしのばせて街に出るような状況でした。通常では考えられないことです。
しかし、一番大切なのは、早く確実に食糧を届けるということです。そのためには、ルールを破ってでも、本質的に正しいことであれば大胆に決断するということを学び、鍛えられました。
- 支援活動を行う際、一番、心がけてきたことはなんですか?
まずは、現場に必ず足を運ぶことです。現場はひとつひとつ違います。何が起きているか、何が必要か、現場に行かないと、何もわかりません。
次に、支援チームの編成です。私は、緊急支援を立ち上げるときは、まずは何を差し置いてもチームの組織図をつくります。どこに何人のスタッフを配分するかを決め、さらに指揮系統をはっきりさせることで、支援活動を効率的に進めることができます。
この時、いくつか気をつけていることがあります。
まず、支援需要の測定、活動内容の策定、物資輸送など、各部門の要となる人物を選びます。さらに、支援活動に直接携わる職員だけでなく、後方支援を行う総務スタッフもいち早く現地入りさせます。彼らが、スタッフ全員の食べ物、水、トイレットペーパーなどの生活必需品を確保することで、スタッフが被災者のことだけを考え仕事に集中できるようになります。
また、アイディアのある人、突拍子もないことを考える人を必ずチームに入れるようにします。非常事態が起きている現場では、常識や定石は通用しません。型破りの解決法を考え出せる人材は貴重なのです。
最後に、スタッフ間の信頼関係が大事です。たとえば、去年、フィリピンで発生した大型台風の被災者への支援活動を行った時、食糧倉庫を建てた土地が大雨でぬかるみ、中に保管していた支援食糧が水没しそうになったことがありました。そのため、その土地に砂利を敷く工事が必要となったのですが、通常の手続きを踏んでいては間に合いません。そこで、部下が私のところに、特別に、通常の手続きを省略した形での工事の承認を求めにやってきました。私が承認をすると、部下はニヤッと笑い、「謙朗は絶対に承認してくれると思ったから、実はもうすでに工事を始めているんだ」と言うのです。承認を待ってからの工事では、遅すぎたかもしれません。彼と私の信頼関係あってこそ、支援食糧は水没せずに済みました。やはり、非常時にスピード感ある支援活動を行うためには、信頼が最も重要であると感じさせられました。
- 日本の皆さんへのメッセージをお願いします。
まずは、世界の不平等について知っていただきたいです。そして、国連WFPの支援活動は、日本政府などからの拠出金、つまり国民のみなさんのお金で成り立っていることを知り、支援活動のゆくえや皆さんのお金の使われ方にもっと関心を寄せていただければと思います。
また、若い方たちには、人道支援や開発支援にもっと興味を持っていただきたいです。私が日本でそのような若い方を育てる手助けができればこんなにうれしいことはありません。
日本は災害の多い国です。私は国連WFPを退職しますが、今後は日本に帰国し、今までの経験を活かし、今度は日本での災害対策や、災害発生時の支援活動などに関わっていきたいと考えています。
写真は、スーダン・ダルフールにて。Copyright: WFP
- 国連WFPで支援活動に従事する中で、最も心に残った出来事はなんですか?
1999年、コソボ紛争のときです。ユーゴスラビア軍がコソボのアルバニア系住民を迫害し、80万にも及ぶ人が隣国のアルバニアやマセドニアや、コソボ内の山中などに逃れていました。NATO軍の介入により紛争がおさまり始めたとき、私は小麦を積んだトラックの車列とともに、国連WFPの支援チームの第一陣としてコソボに入りました。
まだ建物が燃えているような状況で、銃声も聞こえ、地雷の危険もあったので、最初の夜は、トラックの小麦粉の袋の上で寝ました。
次の日、山中の森に入り、そこに逃げ込んでいた人たちに対して、コソボでの初めての食糧配給を行った時のことです。私が配給の指示を出していると、6歳ぐらいの女の子が近寄ってきて、「食べ物、ありがとう」と言いながら、花束をプレゼントしてくれたのです。それは、その子が辺りの野の花を摘んでつくってくれた小さな花束でした。思いがけないプレゼントが強く心に残っています。
カンボジアの内戦が終わり、復興に携わった時のことも印象に残っています。地域の役に立つインフラを整備する工事を実施し、工事で働いた人たちに対し、給料の代わりに国連WFPが食糧を配るという形で食糧支援を実施しました。すると、工事に参加すれば食糧がもらえる、ということで、あちこちで猛烈な勢いで貯水池や道路、学校などの建設が進んだのです。たとえば、アンコールワットの遺跡のまわりの道路は、ほとんどがこの時に国連WFPの食糧支援によって建設されたものです。復興が進み、それが今でも残っていることがうれしいです。
- 今までで一番大変だった経験はなんですか?
危険な目に遭うことはそれなりにありました。銃を突きつけられたこともありますし、家に手榴弾を投げ込まれたこともあります。戦闘中の場所では、狙撃手が撃ってくるかもしれない道を、全速力で突っ切りました。でも、僕はこの仕事が大好きで、あまり大変だとは思いませんでした。
一番大変だったのは、大きな緊急支援活動を初めて立ち上げた時のことです。1999年、私は国連WFPのコソボ・バルカン半島諸国特別代表として派遣され、初めて大きな緊急支援を指揮しました。銃声の聞こえる中、全く何もないところから2週間ほどで500人のスタッフを雇い、7つの現地事務所を立ち上げたのは、大きな挑戦でした。
この時は、非常事態だったため、多少、手荒なこともしました。
求人広告を町のあちらこちらに貼り、採用面接に訪れた人は、英語ができれば片っ端から採用しました。
また、食糧用の倉庫をいくつか借りる必要があったのですが、倉庫の持ち主が戦闘から逃れるため避難しており、連絡がつきません。倉庫の賃借契約を結ぶこともできなかったので、スタッフに国連WFPのシールを渡し、いい倉庫が見つかり次第、無断でもしょうがないので貼ってくるように伝えました。
当時は銀行も機能しておらず、送金すらできません。そこで、国連WFPが運航していた国連機に毎日のように万単位でドル札を積んで活動資金を運んでいました。スタッフは、多額の現金を懐にしのばせて街に出るような状況でした。通常では考えられないことです。
しかし、一番大切なのは、早く確実に食糧を届けるということです。そのためには、ルールを破ってでも、本質的に正しいことであれば大胆に決断するということを学び、鍛えられました。
- 支援活動を行う際、一番、心がけてきたことはなんですか?
まずは、現場に必ず足を運ぶことです。現場はひとつひとつ違います。何が起きているか、何が必要か、現場に行かないと、何もわかりません。
次に、支援チームの編成です。私は、緊急支援を立ち上げるときは、まずは何を差し置いてもチームの組織図をつくります。どこに何人のスタッフを配分するかを決め、さらに指揮系統をはっきりさせることで、支援活動を効率的に進めることができます。
この時、いくつか気をつけていることがあります。
まず、支援需要の測定、活動内容の策定、物資輸送など、各部門の要となる人物を選びます。さらに、支援活動に直接携わる職員だけでなく、後方支援を行う総務スタッフもいち早く現地入りさせます。彼らが、スタッフ全員の食べ物、水、トイレットペーパーなどの生活必需品を確保することで、スタッフが被災者のことだけを考え仕事に集中できるようになります。
また、アイディアのある人、突拍子もないことを考える人を必ずチームに入れるようにします。非常事態が起きている現場では、常識や定石は通用しません。型破りの解決法を考え出せる人材は貴重なのです。
最後に、スタッフ間の信頼関係が大事です。たとえば、去年、フィリピンで発生した大型台風の被災者への支援活動を行った時、食糧倉庫を建てた土地が大雨でぬかるみ、中に保管していた支援食糧が水没しそうになったことがありました。そのため、その土地に砂利を敷く工事が必要となったのですが、通常の手続きを踏んでいては間に合いません。そこで、部下が私のところに、特別に、通常の手続きを省略した形での工事の承認を求めにやってきました。私が承認をすると、部下はニヤッと笑い、「謙朗は絶対に承認してくれると思ったから、実はもうすでに工事を始めているんだ」と言うのです。承認を待ってからの工事では、遅すぎたかもしれません。彼と私の信頼関係あってこそ、支援食糧は水没せずに済みました。やはり、非常時にスピード感ある支援活動を行うためには、信頼が最も重要であると感じさせられました。
- 日本の皆さんへのメッセージをお願いします。
まずは、世界の不平等について知っていただきたいです。そして、国連WFPの支援活動は、日本政府などからの拠出金、つまり国民のみなさんのお金で成り立っていることを知り、支援活動のゆくえや皆さんのお金の使われ方にもっと関心を寄せていただければと思います。
また、若い方たちには、人道支援や開発支援にもっと興味を持っていただきたいです。私が日本でそのような若い方を育てる手助けができればこんなにうれしいことはありません。
日本は災害の多い国です。私は国連WFPを退職しますが、今後は日本に帰国し、今までの経験を活かし、今度は日本での災害対策や、災害発生時の支援活動などに関わっていきたいと考えています。
写真は、スーダン・ダルフールにて。Copyright: WFP