※訂正 ポルシェ919ハイブリッドがル・マンを制覇
[17/06/23]
提供元:共同通信PRワイヤー
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※訂正 ポルシェ919ハイブリッドがル・マンを制覇
訂正:2017年6月22日配信のプレスリリースを下記のとおり、お詫びして訂正させていただきます。
LM P1、ル・マン24時間 ー レースの事実
ポルシェAG(本社:ドイツ、シュトゥットガルト 社長:オリバー・ブルーメ)は、卓越したチーム精神と、超人的とも言える努力で、2017年のル・マン24時間レースで優勝しました。6月18日、アール・バンバー(ニュージーランド)/ティモ・ベルンハルト(ドイツ)/ブレンドン・ハートレー(ニュージーランド)組は、驚異的な追い上げを見せ、ポルシェに19回目の総合優勝をもたらしました。奇しくもちょうど40年前、ジャッキー・イクス(ベルギー)/ユルゲン・バルト(ドイツ)/ハーレイ・ヘイウッド(米国)組がポルシェ936で42番手から優勝を遂げた同様の大逆転劇がありました。
ポルシェAGのオリバー・ブルーメ取締役会長は、「ドラマチックなレースでした! 54位から1位に上り詰める。そんなことが可能であると誰が信じたでしょうか?ル・マンの伝説は、先週末、私達が体験した信じられないような物語によってこれからも生き続けます」
85回を数える世界最大かつ世界最難関のレースは、トヨタの1-2リードと最終的にはレースで優勝することとなるカーナンバー2のポルシェ 919ハイブリッドの不運でスタートしました。午後6時30分、バンバー/ベルンハルト/ハートレー組の919は、予定外のピットストップを余儀なくされました。フロントアクスルを駆動するエレクトリックモーターの交換に1時間5分かかりました。カーナンバー2は午後7時35分、レースリーダーに19周遅れの54位でレースに復帰しました。
夜間、日本の手強いライバルが被害を被ることになりました。カーナンバー8のトヨタはピットガレージでの修理に長時間を費やし、一方のカーナンバー7はクラッチトラブルのためコース上で停止しました。そして、カーナンバー9もトラフィック中のクラッシュによりリタイヤとなりました。午前0時45分、カーナンバー1のポルシェ 919ハイブリッドが首位に立ちました。しかし、午前11時09分、気温が高いレースの代償を払うことになりました。トップを走行していた車両のエンジンがストップしました。P1での10時間以上におよぶ力強いパフォーマンスを見せていながら、ニール・ジャニ(スイス)、アンドレ・ロッテラー(ドイツ)とニック・タンディ(英国)の夢は、突如として潰えたのです。
カーナンバー2のポルシェ919ハイブリッドは、LM P1で最上位に浮上、LM P2の車両を次々と仕留めてゆきます。午後12時50分、330周目で、ベルンハルトはレースリーダーと同じ周回まで追い上げました。347周目には後ろに張り付きオーバーテーク、その20周後には総合優勝となるチェッカーフラッグを受けました。
レースを数字で振り返る:
・カーナンバー2の優勝チームは、平均速度208.2 km/hで367周(5,001.23 km)を周回しました。
・カーナンバー2は最後の20周、総合クラスの首位を走行しました。
・今回のレースにおける首位での最多周回は、ニール・ジャニ(スイス)/アンドレ・ロッテラー(ドイツ)/ニック・タンディ(英国)組のカーナンバー1ポルシェが記録しました。このポルシェ919ハイブリッドは、155周から318周目まで(午前0時45分から午前11時09分まで)首位を走行しました。さらに、これより前にピットストップの関係から2周首位で走行しました。合計で、カーナンバー1は166周をトップで走行しました。
・カーナンバー1のエンジンがストップした時点で、後続に13周の差をつけていました。
・24時間で、セーフティカー導入が3回(15周)、速度が80 km/hに制限される「スローゾーン」が27回ありました。
・13.629 kmのコースが完全にグリーンだったのは367周のレースのうち246周のみでした。
・優勝車両は、合計29回ピットロードを走行しました。うち1回はドライブスルーペナルティでした。これには、修理のための長時間のピットストップも含まれ、ピットで費やした時間は1時間38分5.211秒でした。
・勝利車両は、スリックタイヤ10セットを使用し、燃料補給は28回行いました。
・優勝したポルシェ919ハイブリッドの決勝での最高速の公式記録は334.9 km/hでした(ベルンハルト、338周目)。
・1セットのタイヤによる最長走行距離は、アール・バンバーがドライブした124周から167周までの43周でした。
・これに次ぐ記録は、ベルンハルトの325周目から367周のフィニッシュまでの42周でした。
・ベルンハルトは、ドライバーの中で明らかに最長の距離を走行しました。彼は合計159周、ハートレーは106周、バンバーは102周を走行しました。
・レース前のベルンハルトの体重(レーシングスーツとヘルメットを含む)は65.0 kgでした。レース後の体重計の目盛りは63.8 kgを指しました。
・ポルシェ チームのフルサービスの最速のピットストップ(タイヤ交換およびドライバー交代を含む)は、82.343秒でした。
・最速の給油(満タン)ピットストップは、午後10時14分の64.342秒でした。
・ドライバーは、それぞれのスティントで0.9リッターのドリンクを飲みました。ドリンクボトルは、給油のピットストップのたびに補充されました。
・優勝車両では、最適な視界を確保するため11枚のフィルムが剥がされました。
・最高気温は、フィニッシュの少し前に記録された31.5°Cでした。夜間の気温は19°Cまで下がりました。最高路面温度は土曜日の39°Cでした。夜間の最低路面温度は27°Cでした。
・カーナンバー2から24時間で送信されたデータは、25.2 GBでした。
・FIA世界耐久選手権の全9戦中3戦終了時点(ル・マンのポイントは2倍)で、マニュファクチュアラー部門においてポルシェが111ポイントでトヨタ(78.5ポイント)をリードしています。ドライバーズ・ワールド・チャンピオンシップでは、バンバー/ベルンハルト/ハートレーが83ポイントを獲得し、17ポイント差でリードしています。ジャニ/ロッテラー/タンディは、現在28ポイントの5位です。
バックミラーに映る栄光 ー 1977年のジャッキー・イクスの追い上げ:
40年前にも、ポルシェはル・マンで不可能を可能にしました。そのときの様子を、6回の総合優勝を誇るジャッキー・イクス(ベルギー、72歳)はこう振り返ります。「3時間経過した時点で、私達はこのレースでは勝てないと思いました。私の936はリタイヤし、私はユルゲン・バルトとハーレイ・ヘイウッドに合流しました。しかし、彼らもまたトラブルを抱えていました。私達は42位でした。今でも、私は次に何が起こったかよくわかりません。陶酔状態だったのです。私は一晩中最高速で走行し、常に限界でした。雨が降り、霧も出ましたが、私はどんどん速さを増しました。42位、35位、28位、20位、9位、6位、5位。誰もが私達が想像もできないことを達成できると感じていました。ユルゲンとハーレイは、それまで以上の速さでドライビングし、メカニック達は驚くような仕事をしました。私は、全く疲れを感じませんでした。そして、私達は首位に立ったのです。日曜の朝には、私は完全に消耗し切っていました。最後には、ユルゲンが5気筒のみになった936で何とかフィニッシュラインを通過しました。私だったらできなかったでしょう。数多くのレースに、数多くのすばらしい物語があります。しかし、1977年は群を抜いています。あれは、一生に一度の出来事です。あのようなレースが、ポルシェを伝説にしたのです」
訂正:2017年6月22日配信のプレスリリースを下記のとおり、お詫びして訂正させていただきます。
LM P1、ル・マン24時間 ー レースの事実
ポルシェAG(本社:ドイツ、シュトゥットガルト 社長:オリバー・ブルーメ)は、卓越したチーム精神と、超人的とも言える努力で、2017年のル・マン24時間レースで優勝しました。6月18日、アール・バンバー(ニュージーランド)/ティモ・ベルンハルト(ドイツ)/ブレンドン・ハートレー(ニュージーランド)組は、驚異的な追い上げを見せ、ポルシェに19回目の総合優勝をもたらしました。奇しくもちょうど40年前、ジャッキー・イクス(ベルギー)/ユルゲン・バルト(ドイツ)/ハーレイ・ヘイウッド(米国)組がポルシェ936で42番手から優勝を遂げた同様の大逆転劇がありました。
ポルシェAGのオリバー・ブルーメ取締役会長は、「ドラマチックなレースでした! 54位から1位に上り詰める。そんなことが可能であると誰が信じたでしょうか?ル・マンの伝説は、先週末、私達が体験した信じられないような物語によってこれからも生き続けます」
85回を数える世界最大かつ世界最難関のレースは、トヨタの1-2リードと最終的にはレースで優勝することとなるカーナンバー2のポルシェ 919ハイブリッドの不運でスタートしました。午後6時30分、バンバー/ベルンハルト/ハートレー組の919は、予定外のピットストップを余儀なくされました。フロントアクスルを駆動するエレクトリックモーターの交換に1時間5分かかりました。カーナンバー2は午後7時35分、レースリーダーに19周遅れの54位でレースに復帰しました。
夜間、日本の手強いライバルが被害を被ることになりました。カーナンバー8のトヨタはピットガレージでの修理に長時間を費やし、一方のカーナンバー7はクラッチトラブルのためコース上で停止しました。そして、カーナンバー9もトラフィック中のクラッシュによりリタイヤとなりました。午前0時45分、カーナンバー1のポルシェ 919ハイブリッドが首位に立ちました。しかし、午前11時09分、気温が高いレースの代償を払うことになりました。トップを走行していた車両のエンジンがストップしました。P1での10時間以上におよぶ力強いパフォーマンスを見せていながら、ニール・ジャニ(スイス)、アンドレ・ロッテラー(ドイツ)とニック・タンディ(英国)の夢は、突如として潰えたのです。
カーナンバー2のポルシェ919ハイブリッドは、LM P1で最上位に浮上、LM P2の車両を次々と仕留めてゆきます。午後12時50分、330周目で、ベルンハルトはレースリーダーと同じ周回まで追い上げました。347周目には後ろに張り付きオーバーテーク、その20周後には総合優勝となるチェッカーフラッグを受けました。
レースを数字で振り返る:
・カーナンバー2の優勝チームは、平均速度208.2 km/hで367周(5,001.23 km)を周回しました。
・カーナンバー2は最後の20周、総合クラスの首位を走行しました。
・今回のレースにおける首位での最多周回は、ニール・ジャニ(スイス)/アンドレ・ロッテラー(ドイツ)/ニック・タンディ(英国)組のカーナンバー1ポルシェが記録しました。このポルシェ919ハイブリッドは、155周から318周目まで(午前0時45分から午前11時09分まで)首位を走行しました。さらに、これより前にピットストップの関係から2周首位で走行しました。合計で、カーナンバー1は166周をトップで走行しました。
・カーナンバー1のエンジンがストップした時点で、後続に13周の差をつけていました。
・24時間で、セーフティカー導入が3回(15周)、速度が80 km/hに制限される「スローゾーン」が27回ありました。
・13.629 kmのコースが完全にグリーンだったのは367周のレースのうち246周のみでした。
・優勝車両は、合計29回ピットロードを走行しました。うち1回はドライブスルーペナルティでした。これには、修理のための長時間のピットストップも含まれ、ピットで費やした時間は1時間38分5.211秒でした。
・勝利車両は、スリックタイヤ10セットを使用し、燃料補給は28回行いました。
・優勝したポルシェ919ハイブリッドの決勝での最高速の公式記録は334.9 km/hでした(ベルンハルト、338周目)。
・1セットのタイヤによる最長走行距離は、アール・バンバーがドライブした124周から167周までの43周でした。
・これに次ぐ記録は、ベルンハルトの325周目から367周のフィニッシュまでの42周でした。
・ベルンハルトは、ドライバーの中で明らかに最長の距離を走行しました。彼は合計159周、ハートレーは106周、バンバーは102周を走行しました。
・レース前のベルンハルトの体重(レーシングスーツとヘルメットを含む)は65.0 kgでした。レース後の体重計の目盛りは63.8 kgを指しました。
・ポルシェ チームのフルサービスの最速のピットストップ(タイヤ交換およびドライバー交代を含む)は、82.343秒でした。
・最速の給油(満タン)ピットストップは、午後10時14分の64.342秒でした。
・ドライバーは、それぞれのスティントで0.9リッターのドリンクを飲みました。ドリンクボトルは、給油のピットストップのたびに補充されました。
・優勝車両では、最適な視界を確保するため11枚のフィルムが剥がされました。
・最高気温は、フィニッシュの少し前に記録された31.5°Cでした。夜間の気温は19°Cまで下がりました。最高路面温度は土曜日の39°Cでした。夜間の最低路面温度は27°Cでした。
・カーナンバー2から24時間で送信されたデータは、25.2 GBでした。
・FIA世界耐久選手権の全9戦中3戦終了時点(ル・マンのポイントは2倍)で、マニュファクチュアラー部門においてポルシェが111ポイントでトヨタ(78.5ポイント)をリードしています。ドライバーズ・ワールド・チャンピオンシップでは、バンバー/ベルンハルト/ハートレーが83ポイントを獲得し、17ポイント差でリードしています。ジャニ/ロッテラー/タンディは、現在28ポイントの5位です。
バックミラーに映る栄光 ー 1977年のジャッキー・イクスの追い上げ:
40年前にも、ポルシェはル・マンで不可能を可能にしました。そのときの様子を、6回の総合優勝を誇るジャッキー・イクス(ベルギー、72歳)はこう振り返ります。「3時間経過した時点で、私達はこのレースでは勝てないと思いました。私の936はリタイヤし、私はユルゲン・バルトとハーレイ・ヘイウッドに合流しました。しかし、彼らもまたトラブルを抱えていました。私達は42位でした。今でも、私は次に何が起こったかよくわかりません。陶酔状態だったのです。私は一晩中最高速で走行し、常に限界でした。雨が降り、霧も出ましたが、私はどんどん速さを増しました。42位、35位、28位、20位、9位、6位、5位。誰もが私達が想像もできないことを達成できると感じていました。ユルゲンとハーレイは、それまで以上の速さでドライビングし、メカニック達は驚くような仕事をしました。私は、全く疲れを感じませんでした。そして、私達は首位に立ったのです。日曜の朝には、私は完全に消耗し切っていました。最後には、ユルゲンが5気筒のみになった936で何とかフィニッシュラインを通過しました。私だったらできなかったでしょう。数多くのレースに、数多くのすばらしい物語があります。しかし、1977年は群を抜いています。あれは、一生に一度の出来事です。あのようなレースが、ポルシェを伝説にしたのです」