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ル・マン24時間にまつわるそれぞれの洞察

ル・マン24時間にまつわるそれぞれの洞察

ポルシェLMP1のワークスドライバーが語る


ポルシェAG(本社:ドイツ、シュトゥットガルト 社長:オリバー・ブルーメ)のLMP1 チームのワークスドライバー6名は世界最大級の自動車レースであるル・マン24時間に、のべ37回のエントリーを数え、5回は総合優勝を飾ってきました。しかし、きたる6月17−18日に開催されるこの過酷な耐久レースの考察で心に浮かぶのは栄光の瞬間だけではありません。

ドライバーたちは、嵐の前の静けさの中、伝統ある耐久レースとの関係について個人的な見解を述べています。現世界チャンピオンのニール・ジャニ(スイス)は、アンドレ・ロッテラー(ドイツ)およびニック・タンディ(イギリス)とポルシェ919ハイブリッド1号車をシェアし、アール・バンバー(ニュージーランド)/ティモ・ベルンハルト(ドイツ)/ブレンドン・ハートレー(ニュージーランド)組は2号車のステアリングを握ります。

アール・バンバー:ピットレーンのゾンビ
「2015年のル・マンは、スタートからあわただしさが続きました。きっかけは、ポルシェ ファクトリードライバーとなった、2014年のクリスマス直前における919ハイブリッドのテストです。ポルシェ スーパーカップとカレラ カップ出身のドライバーにとって、LMP1ハイブリッドの運転は思いも寄らないチャンスでした。このような機会を得ることは想像もしていなかったし、ポルシェが私を信頼してくれたことにも恐縮してしまいました。ヴァイザッハで初めてシミュレーターをテストする前、レースエンジニアのカイル・ウィルソン=クラークは、ハイブリッドスポーツプロトタイプの運転についてどの程度の経験があるかと尋ねました。私は、『全く経験はありません。ステアリングホイールに2つのスイッチがある911 GT3 Cupの運転には慣れていますよ』と答えました。テストはうまくいき、その帰宅途中にポルシェから電話がありました。『スケジュールを空けておいてください。6月のル・マンへの出場が決まりました』と告げられました。その瞬間、握っていたペンが滑り落ちました」。

「2015年のル・マンにおいて、我々の919ハイブリッドは練習走行と予選で見事な速さを見せました。ニコ・ヒュルケンベルク、ニック・タンディ、そして私の全員は、クラッシュを避けて慎重に運転すれば表彰台に登ることが可能であるという意見で一致しました。我々はラップを数え、緊張をほぐし、ポジションを気にしすぎないようにしました。そして日曜日の早朝には首位に立ちました。レース前、我々のマシンに特別注目している人はいませんでしたが、このときからプレッシャーを感じ始めました。世界最大級のレースで優勝できるとは3人とも考えていませんでした。ニコがチェッカーフラッグを受けたときは狂乱状態に陥りました。私はゾンビのようにピットレーンの外側を歩き、起こったことが理解できず、何をしてどこに行けばよいのか分かりませんでした。昨年、ル・マンのパドックに戻ったとき、あの特別な瞬間が蘇りました。私がニュージーランドでカートを始めたのは1998年です。ニコ、ニックとル・マンで優勝を飾ったのは、その1998年にポルシェがル・マンを制して以来のことです」。

ティモ・ベルンハルト:アレックスから聞いたこと
「ジュニアチームでポルシェのキャリアを始めてからこれまで、アレックス・ウィゲンハウザーが私のメカニックを担当しています。彼は常にル・マンのことを考えていて、911GT1と1998年のポルシェの総合優勝について話してくれましたが、それがどのようなことか、想像もつきませんでした。GTクラスで初めてル・マンを走った時、ル・マン神話の意味が徐々に分かり始めました。その時はクラス優勝をしましたが、総合優勝者はヒーローでした。それまでは想像もしなかったことですが、大観衆を前に総合チャンピオンとして巨大なバルコニーに立つことが目標となりました。2009年から2012年まで、ロマン・デュマと私はアウディをドライブし、2010年にバルコニーに立つ夢が実現しました」

「その年は最初と最後のスティントを運転する好機を得ました。最も感動的な区間でした。ル・マンでスタートを切ったのはこれが初めてだったので、その前の何時間にもわたって激しい緊張が続きました。フォーメーションラップではアドレナリンがほとばしり、最終ラップではマーシャルがサーキットに立ってフラッグを振っていたのを覚えています。我々は集団でゴールしました。このときの感覚を生涯忘れることはないでしょう。最後の数分は非常に個人的な時間でした。映画を見ているようにあらゆることが蘇りました。子供時代の夢、両親の支援、過酷な仕事、満足を感じました。表彰台に登ったときは、何千人ものファンを見ながら非現実的な感覚を味わいました。横に立っていたトム・クリステンセンが私に尋ねました。『どうしたの。幸せじゃないの?』あらゆることにただ圧倒されていました。今は亡き心優しいジャーナリストのグスタフ・ビュージングは言いました。『君はル・マンの覇者だ。これは永遠に消えない事実だ』。私は感動しました。どんなに優秀なレーシングドライバーでも、このレースで確実に優勝できるわけではありません。規模、耐久性、ドラマ。ル・マンは計画が成り立たないところです。とても感謝しています」

「アラン・マクニッシュはかつて『当時はあらゆる衝撃が大きすぎて最初のル・マン優勝を心から喜ぶことができなかった。2回目にようやく喜べるようになったよ』と述べていました。私がポルシェで経験したいのはまさにこの感動です!」。

ブレンドン・ハートレー:夜間のワープ
「ル・マンで忘れられない思い出は、2012年の夜間のサルトサーキットでの体験です。シングルシーター出身なので最初のル・マンでは学ぶべきことがたくさんありました。しかし、ほとんどの準備はできていたと感じていましたが、初めての夜間レースに対する準備はしていませんでした」

「その瞬間まで、自分は純粋にフィーリングで運転するドライバーだから、他のドライバーと違って、コースサイドの目印は必要ないと信じていました。しかし、それは大きな間違いでした。建物、ガードレール、樹木、路面のライン、考えもしなかった遠くの無意味に思えるものの全てが視界から消えていました。その時初めて、これらの目印に大きく頼っていたことに気付いたのです。そして最初の5周は、全く新しい目印を考慮してサーキットについて学び直しました。その大半は昼間には見られない反射とライトによる高速の点滅でした」。

「次に、全く異なるスピード感覚と、エイペックスで速度を早く落としすぎていることに気付きました。その原因は、ヘッドライトにより狭められた視界に物が出入りする時、車がワープしているように感じられるためでした。夜間における最初の5周の走行の後、その状況を受け入れると、気分を自然に高揚させることができるようになりました。それはすばらしい感覚でした。夜間の運転は肉体的にハードでなくても、長いスティントとなると精神的にはかなりきつく感じられますが、ル・マンではこのチャレンジを進んで受け入れています。そして早朝の孤独な時間に追加スティントが求められた場合は自ら買って出ます」。

ニール・ジャニ:あらゆるチャンスを生かす
「2009年当時はシングルシーターのレースが優先で、F1テストも行っていましたし、将来がどうなるのかよくわかっていませんでした。その年、レベリオンからLMP1ローラ・アストンマーティンのドライバーとして初めてル・マンに出場して、このレースの偉大さに驚かされました」。

「ル・マンの魅力は、予測不可能なドラマ性です。このレースは予想外の方向に展開し、ときには最速ではない車が優勝するのを幾度も見てきました。プジョーはアウディより明らかに速いにもかかわらず4台すべてがリタイアした年もありました。速いだけでなく、チャンスが到来するまでレースに留まらなくてはなりません。あらゆることが起こる可能性があり、24時間にわたって同じ車がリーダーであることは稀です」。

「昨年のレースはそれを明確に示しています。トヨタがゴールの数分前にリタイアしました。トヨタとドライバーにとって、それがいかにつらいことだったかは理解できます。そしてル・マンを制することがいかに難しいかが改めて証明されました。トヨタとは接戦でした。我々は違う燃料補給の戦略を備えていたので、コース上で争うことはありませんでしたが、シミュレーションの差は常にわずか数秒で抜きつ抜かれつの状態でした。ポルシェは数回のフルコースイエローによる不運と2回のパンクに見舞われました。ツキに恵まれたわけではなかったのに、最後には振り子が我々の方に振れました。もちろんライバルの不運を望んだわけではありません。物事は常に安定のために振れ戻します。これまでル・マンに8回出場していますが、テクニカルトラブルなしでゴールできたのは3回だけです。スタート前にジャッキー・イクスが私に言いました。『ル・マンに優勝することはできない。ル・マンが君を優勝させるのさ』」。

アンドレ・ロッテラー:飛び立った人
「ル・マンを愛しています。ル・マンのためにすべてを投げ捨てられると言っても、過言ではありません。アウディと私は偉大な歴史を分かち合っています。アウディと共に今もレースに出場することはできますが、その舞台はル・マンではありません。ポルシェから、このレースに出場することは特別な魅力があります。なぜならこのブランドはル・マンと密接に結びつき、浸透しているからです。子供の頃スポ−ツカーを描くと、そのフォルムは常に911のそれでした。ここ最近、数台のポルシェを購入する幸運に恵まれました。さらに会社から貸与されている車と919ハイブリッドの2台も加わりました!」。

「ル・マンは大規模なプロジェクトで、過酷なレースです。スポーツカーは最高の仲間と1台の車をシェアすることを意味します。ブノワ・トレルリエやマルセル・フェスラーとの関係は非常に特別でした。耐久レースは徹頭徹尾チームスポーツです。ル・マンは全ての人を限界まで追い込みます」。

「このレースで優勝することは本当にすばらしいことです。これまでに3回経験しましたが2011年の最初の優勝がキャリア最高の栄誉であると考えています。1回目には2回目の優勝の機会が得られるかを知る由もなかったので、非常に特別なレースとなりました。セーフティカーが数時間に渡って入り、プジョーと40回にわたって首位を入れ替わりました。6秒の差をつけていたレース終盤、同時に最後のピットストップに入り、最終的には13.8秒差で優勝しました。私は最後の約4時間、5つのスティントを走りました。その年、アラン・マクニッシュは大きなクラッシュでレース開始から1時間でリタイアし、夜間にはマイク・ロッケンフェラーが大きな事故に見舞われました。そのため、2つのガレージが閉まり、ブノワ、マルセルと私はプジョーに対して1台で立ち向かうことになりました」。

ニック・タンディ:泣く場所を探して
「2015年のル・マン優勝を考えると今でも心が高ぶります。出場するチャンスがあるとは思っていませんでした。こんなに特別で大きなレースに出場することなど、一瞬たりとも夢を見たことはありませんでした。2015年のレースの3時間前には緊張でいっぱいで、解放されるのを待つコイルスプリングのようでした。ピット内に座り、歩き回り、身の置き場がないのです。自身最後のスティントを走り終え、フィニッシュはアールとニコに委ねられました。ステアリングを握っていないのはつらいことでした。もちろん2人のチームメイトを100%信頼していましたが、運命は自分のコントロールがおよばない所にあったからです。プロになって15年間のハードワークの後に、悪いことが起こらない限りモータースポーツで世界最大級のレースにおいて優勝を飾り頂点に達しようとしているときに、彼らがステアリングを握る“自分の車”をテレビでただ見つめているだけでした。それは非常につらいことでした」。

「時計が午後3時へ近づくにつれて高まるプレッシャーは、アールと一緒にピットで過ごした最後の約15分間、最高潮に達しました。その時は裏口から逃げ出したい気分でした。世界最大級の、そして自分のキャリア最大のレース優勝は、経験したことのない緊張と重圧となりました。静かになれるどこか隅っこを探して泣きたかったのだと思います。チェッカーフラッグの後はわけがわかりません。あまりに多くのことが起こり、安堵感を抑えることができず、朦朧としていました。レース後の祝賀会の写真やビデオを見て、どうにかその時のことを思い出すことができます」。

「日曜日の夜は早い時間にポルシェのパーティーから部屋へ戻りました。肉体的にも精神的にも疲れ果てていたのか、すぐに眠りました。翌日はイギリスへ妻と娘を乗せて運転しましたが、これまでで一番ストレスのない長距離走行でした。世界は最高の場所でした。村に戻ったとき、家族と友人が「おめでとう」の横断幕とともに地元のパブで開いてくれたパーティーは、素晴しい時間でした」。


<本件に関する読者からのお問い合わせ先>
ポルシェ カスタマーケアセンター 0120−846−911
ポルシェ ホームページ http://www.porsche.com/japan/


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